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バストスと焼津、知られざる〝深い絆〟=親子3人殺害事件の背景に迫る

2007年2月22日付け

 【バストス発】それまで饒舌だった地元日系人の人々が、記者がネーヴェス事件について質問をはじめると、一気に場の空気が固まった。この沈黙が、事件の衝撃を雄弁に物語っているようだ。
 昨年末に静岡県焼津市で起きた日系親子三人殺害事件の容疑者が帰伯逃亡した一件について、日伯のマスコミが同地出身の容疑者を追っかけてバストス日系文化体育協会(真木勝英会長)などに取材し、大騒ぎになったことは記憶に新しい。
 同地の老人クラブ明朗会の阿部五郎会長(79)に改めて尋ねると、少しの沈黙のあと、「対岸のことのような感じです」と言葉少なげにゆっくりと答えた。
 事件が報じられて一週間ほど話題になったきりで、今では話題に上がることもないという。
 いつもはハキハキとしゃべる阿部さんだが、返答の度に間があく。「なんともね~、(容疑者は)日系と交流があったわけでもないし」。国外犯処罰(代理処罰)の裁判が始まっていても「ん~、他人事ですよ。少なくとも日系社会で取り上げることはない」と言葉を選び慎重に答える。
 阿部さんは、ゆっくりとだが、力強く「彼が日系人(日系社会の一員)だとは認識していませんから」と言い切った。凶悪事件の容疑者と関係づけて語られることを好まない空気が、雰囲気から漂ってくる。
 実はバストスと焼津市には、知られざる〃深い絆〃があり、それが今回の事件の背景となった。
 焼津市には約千二百人のブラジル国籍者(二〇〇五年焼津市外国人登録国籍別人口より)がいるが、そのうち、約三百人から四百人がバステンセだという。
 バストスの人口は約二万人。うち日系人は約一五パーセントだといわれている。同地でデカセギが始まったのは一九八〇年代後半からだ。
 八九年から六年間、デカセギ斡旋を行っていた宇佐美宗一さん(69)は「私が始めたときは他に一社ありましたけど、それからブームになりまして」。最盛期には、バストス内だけで斡旋会社が七社あったという。
 たいていの会社は日本の人材派遣会社と契約していたが、宇佐美さんは「矢崎総業の沼津支店、焼津の水産加工センターと直接取引きをしてましてね、多いときには一回で四十人、五十人。六年間で五百人くらいの人を扱いましたね」。
 一九九八年のバストス入植七十周年で日系人名簿が作成された際には、五百二十人がデカセギとして日本にいた。
 宇佐美さんは、名簿に含まれてない人を含めると「バストスからは千八百人くらいが出た」。九〇年ごろに日本へ渡った非日系デカセギ者が、現在、焼津市で人材派遣会社を経営しているという。「だからか知りませんが(焼津市に)三百から四百人のバステンセがいると聞いてます」。
 ただ、宇佐美さんは「ほとんどの人(デカセギ)は私たちが〃日系〃と認識してない人なんです」と強調する。日系の血筋に連なる人々だが、すでに日系アイデンティティーを失った世代が中心になって訪日していると話す。
 まして、今回の容疑者は日系人の配偶者として訪日した非日系人だ。「ゴイアバ(同容疑者の通称)も市役所の職員だったから顔ぐらい見たことあるかもしれないけど、俗にいう日系の人から見たら『どこの人だろう』って話ですよ」。
 同容疑者を送り出したといわれる斡旋会社に尋ねると「あまり覚えてないんですよね。日系名簿にあるような人なら記憶してますけど」とお茶を濁した。
 現在、バストス市にあるデカセギ斡旋会社は五社。阿部さんによれば、初めてデカセギに出る人はほとんどおらず、日伯を行き来している人が多いという。
 同級生の多くがデカセギに出たという、茂上シンチャ・ルミさん(26)はしぶしぶ「バストスの名前が変なイメージで広まったことが嫌だった」。日伯のメディアで扱われたため、インターネットで「バストス」を検索すると事件の話が真っ先に出たことなどを思い出して顔をしかめた。
 一九二八年にブラ拓が創立した伝統ある移住地のイメージが、たった一人のデカセギが起こした事件で大きく揺れている。

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