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視覚障害者のスポーツの世界=世界選手権、日本選手にきく(下)=サッカーは蘇ってきた青春=「守備、攻撃両方が楽しい」

ニッケイ新聞 2007年9月15日付け

 視覚障害者サッカーが日本に入ってきたのは約六年前。〃サッカー後進国〃と称されている日本だが、同競技では僅か数年で世界と肩を並べるチームになった。今大会で発祥地のスペインに初勝利を上げた。
 昨年行われた世界大会で優勝した、アルゼンチンに〇―二と負けたものの、大差をつけられることなく試合を終えた。今回は大きな手応えを掴み取ることができた。個人技では他国にはかなわない部分も多いが、組織プレーで相手を翻弄した。これから世界との戦いに注目が集まる。
 サッカー(B1)に出場していた日本代表は、一、二、三、五日の四日間で四試合を行った。予選では一勝二敗で決勝戦には進むことができず、三位決定戦で延長戦まで縺れこんだが、結果は四位だった。
 約二十年前、スペインが発祥地、と言われているブラインドサッカー。日本に入ってきたのは六年前の十一月。世界中で僅かな参加国数しかないが、日本のランキングは世界七位と上々なものだ。
 同大会で総務を務めた釜本美佐子さんは「視覚障害者にとって、攻撃と守備の両方ができるサッカーは楽しくて最高のスポーツ」と位置付けていた。
 チームの一員として参加している葭原滋男さん(東京都)は、チーム最年長の四十五歳。もともと目が悪かったが、生活に支障はなかった。だが、年を重ねるごとに悪くなり、二十二歳の時に網膜色素変成症(視野が狭く、夜は殆ど見えない)を患って障害者になった。
 子供の頃からスポーツ少年で、中学校、高校とサッカーをしていた葭原さんは、障害者になって絶望の日々だった。しかし、沖縄で障害者スポーツを見て以降、陸上、スキー、サーフィン、タンデムスプリント(自転車競技)など数多くのスポーツの競技をしてきた。
 九二年バルセロナ、九六年アトランタのパラリンピックに走り高跳び(陸上)で出場し、アトランタで銅を獲得。その後、自転車競技に転向し、シドニーで金(世界新記録)、アテネで銀を手にした。
 アテネの前には練習のし過ぎで心臓がオーバーヒート、骨折、パートナー急遽変更、などいろいろなアクシデントに見舞われたが、見事銀を掴み取った。
 その後、年齢的にも体力的にも考えてアテネで引退を表明した。しかし、サッカーに対する思いは消えることがなく、視覚障害者でもサッカーができるということを知り、再開した。
 平日は都庁に務めていて、週に三回ほど行なわれているクラブでの練習と月に一回関東で開催される大会をいつも楽しみにしているとか。
 葭原さんは「今回は残念な結果だったけど、大きな経験になった。(私たちの)クラブの選手たちにも情報を教えたい」と喜びながら話した。
 「人生において、蘇ってきた青春」と葭原さんは笑顔でサッカーを表現した。



視覚障害者のスポーツの世界=世界選手権、日本選手にきく(上)=体が続く限り柔道を=「人生そのものだから」

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