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ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組=新社会の建設=創設者の光と影=下元健吉没後50周年=連載《第5回》=元職員老人は舌鋒鋭く批判=「神様扱いはおかしい」

プレ百周年特別企画

2007年10月2日付け

ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第5回》=元職員老人は舌鋒鋭く批判=「神様扱いはおかしい」
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)

 村上誠基は、コチアの創立発起人十名、創立組合員八十三名の両名簿の筆頭に、名前が記載されている人である。組合創立時、三十五歳。下元より六歳年長であった。しかし創立後の役員名簿を見ると、ほんの一時期、理事長や監事を務めただけで、後は表に出ていない。
 久保はその理由を、
 「村上は個人主義の権化の様な男で、組合役員のように儲けにならぬ仕事には手を出さない。が、組合は必要だと判っていたから、人をおだてて役員の仕事を押し付け、自分は逃げていた。村上だけでなく、役員のなり手は、労働力に余裕のある組合員は別として、その頃は、いなかった。下元は、性格的に権勢欲が非常に強く役員の仕事が好きだったから、調法なので役員をやらせておいたのである」
 と記し、さらに、
 「下元は、自己反省など全然しない。思ったことは思ったように喚(わめ)く性格で、それが人に失礼だろうが、頓着しない男」 
 「組合創立の同志の吉本亀と中尾熊喜は、青年会時代から一緒に頭を並べてきたものの、組合創立後は下元が事毎にのさばり出るので面白くなく……(組合を離れて行った)」
 「(下元が)一将功を独占して万骨埋もれ忘れられ……」と手厳しい。
 久保の目から見ると、実際、そういう一面もあったのであろう。
 ただ、久保の投稿の内容は、コチアの創業期に限られている。コチアが下元の下、成長期に入った時期以降のことについては触れていない。なぜ触れなかったかは、判らない。
 「コチア創業の最大の功労者は、下元健吉ではなく、村上誠基である」という説は実は昔から存在し、筆者も何処かで小耳にはさんだ記憶がある。それが具体的な活字という形でタイム・カプセルから取り出されるように姿を現したわけだ。
 なお、別の資料によれば、村上自身も結局、アンチ下元派だったという。
    ◎
 次は生きているアンチ下元派の話である。
 この人は、コチアの元職員で、既に九十歳を越しているが、矍鑠(かくしゃく)たるもので、筆者がサンパウロ近郊のその自宅を訪れ、氏の下元論を求めると、延々と語り続けた。
 すべて下元批判論であった。ただし、この老人、筆者が後日、その談話を草稿にして送付の上、改めて訪問すると、奇妙なことを言い始めた。
 「取材されているとは知らず、単なる昔話として、しゃべったことだから、記事にするな」と。「どうしても記事にしたければ、アンタが何処かで取材したことにしてアンタの責任で書きなさい。私は知らない。私の名前も出さぬように」とも言う。
 どうも、まだ生きている下元敬愛派の人々を刺激したくない、という配慮が働いる様子であった。無理に実名入りで書くと「ワシは、そんな事は言ってはいない」と否定するであろう。
 といって、その下元論は捨てがたいものがある。そこで、以下すべて筆者が、何処かでXという老人を取材してまとめた記事として、筆者の責任の元に記す。
 X老人は、戦前の一九三五年から終戦の四五年までコチアに職員として勤務したという。その初期は、久保勢郎の監事在職時と重なる。
 久保については、
 「賢い人だった。(南米新聞では)相当、本当のことを言っている筈だ」
 と評価、次に、下元死後に出版された書物類を二冊取り出して来て、
 「下元を神様扱いしている。皆、デタラメだ。誰某は、よくも、これほどの嘘を……」
 と語調を荒げた。誰某というのは執筆者たちのことである。
(つづく)

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