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ああ懐かしや日系ラジオ=元アナウンサーらが語る

ニッケイ新聞 2007年12月6日付け

 日系ラジオ放送の元アナウンサーら五人による座談会「戦後コロニアの日語放送」が三日午前、ブラジル日本移民史料館九階であった。ブラジル日本移民史料館の主催。
 コロニアにその声を響かせた菊地啓、内海博、石崎矩之、花岡香哉、深谷圭子(宗方麻納)の五氏が出席、田中洋典氏が司会を務めた。
 戦後の日系ラジオは一九四七年、アラサツーバで始まった。全盛期を迎えた五〇年代半ば、サンパウロ州内で四十以上、サンパウロ市内で十三を数えたが、六六年の外国語放送禁止令やテレビの普及などで衰退した。(「ブラジル日本移民七〇年史」一部参照)
 農家にとって、毎日流された野菜市況などは、重要な情報源。働きながら聞けることから、洗染業者や主婦らにも人気があり、コロニアには多くのファンがいた。
 「だから、間違えると恥ずかしくてね」と石崎氏。クルツーラ放送局では多国語の放送があり、「スタジオは独特の体臭がして強烈だった」と笑う。
 移住前にNHKの広島支局で働いた経験のある花岡さんは、「力道山の来伯や日航のブラジル就航時にスチュワーデスに取材」したことを思い出に挙げる。
 愛聴者だった司会の田中氏は、「NHKの短波もあったが、時間帯の問題もあったし、聞き難かった。コロニアが娯楽や情報に飢えていた時代ですから」と日系ラジオの隆盛を分析。
 アダマンチーナ、サントアマーロ、クルツーラ、ノーヴェ・デ・ジューリョ、ピラチニンガなど各局で働いた経験のある内海氏は、のど自慢大会の公開録音、野球中継などでも活躍。週末自ら、取材に駆け回った日々を回顧した。
 一方、薄給で取材費など出なかった厳しい面もあったが、「情熱があったからね」と往時を懐かしんだ。
 座談会後、出席者らは昼食を共にしながらも思い出話が尽きることはなく、深谷さんが持参した半世紀前の写真を、順々に手に取りながら、華やかかりし日々を振り返っていた。
 深谷さんは写真を史料館に寄付、「知らないことばかりで、みなさんの話を聞くだけで楽しかった」と笑顔を見せていた。
 なお、この座談会はイマージェン・ド・ジャポン(奥原マリオ代表)の協力で撮影・記録され、史料館に保存される。

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