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リオ=杉村公使ゆかりの地を行く=岩手県人会が墓参旅行=《上》=ペトロポリス=往時の面影残す旧公使館=安見さん2年かけ〃発見〃

ニッケイ新聞 2009年5月28日付け

 この人抜きには日本人ブラジル移民史を語ることができない――。一九〇五年四月十九日、駐ブラジル日本国第三代公使として着任し、日本にブラジル移民への種を蒔いた杉村濬(ふかし、岩手県盛岡市出身)。着任してからわずか一年一カ月後の翌〇六年五月十九日、脳溢血で倒れ、今もコルコバードの丘に建つキリスト像に見守られながら眠る。ブラジル岩手県人会(千田曠曉会長)の一行三十一人は、二十二日から一泊三日の墓参旅行を行い、日伯の掛け橋となり移民開始のきっかけを作った杉村公使の数奇な運命を辿った。(渡邉親枝記者)

 リオ州オールゴンス山脈のセーラ・ダ・エストレーラ頂上付近に位置するペトロポリス。海抜八百四十メートルの同地の朝は冷え込む。
 一八四五年、ドン・ペドロ二世の統治時代にドイツ移民が入植して作られた町並は、異国情緒をかもし出している。今も百年以上前の王室の避暑地だった頃の雰囲気を随所に残す。
 この地には、八九年の共和制移行後も、黄熱病が猛威をふるっていたリオを避けて各国大使・公使館が集まっていた。
 一八九五年に国交を樹立した日本もここに公使館を開設。そして一九〇五年、杉村公使の着任とともにブラジル移民開始への歯車が回り始める。
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 二十三日午前六時前、鹿田明義リオ州日伯文化体育連盟理事長の出迎えを受けた一行は、最初の目的地であるペトロポリス市の第二代公使館へと向かった。
 杉村公使が妻ヨシと娘三人と過ごし、息を引き取った場所。数年前まで、「公使館はペトロポリスにあった」というのみで、在リオ総領事館にすら記録は残されておらず、詳細は誰にも知られていなかった。
 その歴史を発見したのが、同地在住三十六年の安見(あみ)清さん(69、茨城)。
 今回、岩手県人会の一行は、安見さんの案内で杉村公使が過ごした公使館兼住居に初めて足を運んだ。杉村公使が、日本の移民路線をブラジルへ向けることとなった報告書を作成したであろう「移民の発祥地」(安見さん)だ。
 安見さんは地元図書館の助力を受けて百年前の新聞を読み解き、また孫の新さんが所蔵していた杉村公使が日本へ送った絵葉書などから場所を確定。
 「リオデジャネイロ州日本移民百年史」(リオ州日本移民百年史編纂委員会)に執筆するために調査しはじめてから、実に二年の歳月がかかった。
 公使館は、百年前の市中心部全景が写ったその絵葉書「白ク細ク高キ建物ハ隣家ノ独逸寺院ナリ」(杉村公使の注釈)と同じ、白く細長い塔をもつドイツ系ルーテル教会の隣に残っていた。一九三九年に二階から三階に建て増ししているものの、政府の保存地域となっていたためだ。
 当時十二歳だった杉村公使の長女が、還暦を迎えて自叙伝を出版している。そこには当時の公使館の間取りが書かれており、「内装はほとんど手が加えられていないことが分かる」(安見さん)。
 天井の高い玄関を通って大広間に足を踏み入れると、円形に飛出た窓が目に入った。「食堂」と書かれた自叙伝の間取り図にある通りだ。
 現在は、パリ在住の持ち主により二〇〇七年末から売りに出されている。不動産会社によれば、土地面積は一千八百平米、述床面積は八百六十一平米で、価格は百二十五万レアル。
 安見さんは「ここは『移民発祥の地』。文化施設として残すべき」と提案している。(つづく)


写真=百年前、杉村公使の自宅兼公使館だった邸宅(23日)

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