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日伯論談=第9回=ブラジル発=宮尾進=デカセギの共生組織化に期待する

2009年7月4日付け

 「デカセギ」をめぐってこの論壇で、第六回までの各氏の発言を読ませてもらった。
 これまでの私の「デカセギ」に関する知識は、いろいろなメディアに報じられた非行や犯罪などに偏向したネガティブな面での知識が基底となったものであった。それが「デカセギ」は「烏合の衆」という私の発言になった。だが、これまでの各氏の見解を見ても、どちらかというとネガティブな見方が中心、といっていいだろう。
 それが今度の経済危機を契機として変化を見せるようになり、「在日ブラジル人全国ネットワーク」なるものも立ち上げられるようになった(アンジェロ・イシ氏)し、失業問題は想像以上に深刻だが、デカセギ始まって以来の危機の中で日本語を覚えようという意識の広がりと、自らが助け合う互助グループの誕生が見られ(三山氏)るし、共同組織をつくるなどのまとまりに欠けるところがあったり、地元の住民との関わり合いもほとんどなかったのが、この不況で変った(石田氏)という。
 まことに結構なことで「雨降って地固まる」となってくれれば、これに越したことはない。
 私は彼らを「烏合の衆」としたものの、十把一からげにしたわけではない。多くはいろいろな困難の中で、まじめに働いているのだろうとは思っていた。だが、どうにも納得出来なかったのは、三十万人余にものぼり二十数年の年月を重ねていながら、お互いに助け合うという、移民一世のような相互扶助の組織を作ろうとする発想が、これまでなぜ生じなかったのかといったことである。
 しかし、これはアンジェロ氏の言うように、「こういう存在を生んだのも、まぎれもなく、ブラジルの日系社会である」ことは間違いない。なぜか、移民世代の持って来た共に力を合わせて助け合うといった日本文化の良き資質は、後継世代には伝えられなかった。それに代わって一代にして極端な自己主義・利己主義に多くが染まってしまった。
 これまでのデカセギの大勢が、この経済危機を機に本当に変ってくれるのだろうか。台風一過すればもとの木阿弥、ということにならないよう願いたいものだ。
 それにはやはり、迂遠なようだが、現在欠けている文化的資質を、日系の後継世代のみならず、これからのブラジル人の中に培っていくことが必要だと私は考えている。
 そのために私たちは、各地に日伯学園といった日本文化普及の学校をいくつも造り、それを通してブラジル社会の中に移民世代のもたらした日本文化の良いものを浸透させていこうとしている。
 それとは別に、ここで二宮氏の発言をみると、デカセギ帰りはすでに「十五万ないし二十万人程度」と見られるという。この数は戦前移民十九万人にも匹敵するものだし、戦後移民の六万人よりもはるかに多い。
 移民七〇年祭の折のシンポジウムで、「我ら新世界に参加す」とのテーマで、基調講演を行った国立民族学博物館の梅棹忠夫館長は、日本の文化的伝統の中の価値ある資質―組織力だとか、強調性の高さ、団結力などといったものは、ブラジル社会においてもなお十分価値を持つものであり、こうした日本文化の価値あるものを伝達していくためには、日本と太いパイプを持ち、断絶のない連帯を計っていく必要があると強調された。
 そのためには、継続的に日本からの移民の流れが常にあることが一番望ましいのだろうが、大きな流れは一九六〇年代までで杜絶してしまった。
 私はデカセギ・ブームが始まった頃、日本語を覚え日本文化にも触れ、それを多少なりとも身につけたデカセギ帰りが増えれば、再び新しい日本文化をもたらす太いパイプとなってくれるだろうと、ひそかに期待するところがあった。
 また、その頃私たちの行った調査でも、地域日系集団地の長老たちの「今はデカセギ・ブームで過疎化し沈滞してしまっているが、彼らが何年かして日本語も覚え、日本人らしさも身につけて帰ってくれば、この地域の日系社会も活性化し、これまで以上に良くなるだろう」との期待の声が各地で聞かれた。
 しかし、すでに大量の帰国者があるというのならば、その実態はどうなのか。我々は彼らが二宮氏の言うような「文化交流の担い手」となった何らかの兆候なり現象なりを、これまで見ることが出来たであろうか。
 帰国者は、確かに個々には蓄財をし、以前より経済的に豊かになったかもしれないが、日系地域社会や、広くブラジル社会に何らかの好ましい影響をもたらしたということを、私は開始以来二十年余も経た今も、全く聞いたことがない。
 これは一体どうしたことなのか。このままでは私はデカセギを「文化交流の担い手」としてポジティブに評価することは出来ないのである。

宮尾進(みやお・すすむ)

 サンパウロ州アリアンサ移住地出身。戦前に訪日し、信州大学を卒業後の1953年に帰国。コチア産業組合機関誌「農業と協同」、「ブラジルの農業」編集長を務める。サンパウロ人文科学研究所元所長。日系社会関係の著書多数。78歳。

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