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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《10》=若者たちが〃中興の祖〃=毎週値段上がるピメンタ

ニッケイ新聞 2009年9月5日付け

 植民者全員の希望を載せたウニベルサル号が、静かに波止場を出航した――。この瞬間、トメアスーにとっての戦争は終わった。
 人事を尽くした結果、「普遍」の名を冠した〃箱船〃が次なる天命を運んできたのだ。
 沢田哲さんは、こう説明する。「最初ね、波止場を出て川の曲がり角(一キロぐらい)までいって、こりゃマズイって一端戻り、バテロン(大型のカノア)つけて再出発した。本体だけじゃ安定しないから急きょ片側にバテロンを付けたんですよ」。沈みこそしなかったが案の定、安定航行にはほど遠いものだった。
 「命がけでした。ほんと無茶なことをやったもんだと思いますよ。自動車のエンジンを乗っけて安定が悪くて、変速機が熱もってシャフトが溶けちゃうんですよ。壊れてね、触れないくらいになる。それで予備に変えたりしてね」。十七回も故障し、あちこちで停留。直し直し、やっとベレン港まで辿り着いた。
 しかし、これで州政府によって押さえられていたベレンまでの搬出ルートが、植民者自身の手によって再び確保された。
 組合に改革提案を出し、体当たりで数々の実績を積み重ねてきた農民同志会の若者たちの中から戸田子郎さん、関勝四郎さんらがまず組合に入っていった。最終的に組合公認の見通しがたったところで、「同志会は役割を終えた」として発展的に解散、四九年に組合が正式公認された。
 現在、組合員番号は約七百五十番まであるが、沢田さんは三十八番。ちなみに三十七番は指導者として有名な平賀練吉さんだ。
 四七年三月からウニベルサル号での出荷が始まり、それと共にピメンタの黄金期が訪れる。かつての「マラリア植民地」が、「模範植民地」に変貌する時がついにきた。
 戦時中に東南アジアが戦火に焼かれ、胡椒の生産が激減したことから市価が一気に上がり、戦時中にキロ三十ミルを越え、終戦直後の四六年には八十五ミルに高騰した。一気にブームとなり、起死回生の永年作物に変わった。
 「一葉落ちて天下の秋を知る」と俗にいうが、トメアスーでは「胡椒一粒落ちて~」のようだ。ベレンでピメンタの交渉役を任じていた沢田さんは、胡椒需要の急増をまっさきに現場で肌に感じた一人だった。
 「ウニベルサル号で運んだピメンタを私も販売した。四十トンとか最初はわずかだった。でもアルナルドという人がセアラの方から買いに来ていて、何トンも持ってきてくれないかという。戸田さんと話して何百も運んだ」と振り返る。
 「持ってきても持ってきても、次々に欲しい欲しいって言ってくるから、毎週値段上げたんですよ」と思いだすだけで笑みが自然にこぼれる。
 「毎週トメアスーに帰ると、組合では真っ先に『今回はいくらしたか』って聞いてくるんですよ。いくらでも売れたから、調子に乗ってどんどんつり上げた」と沢田さんは当時の様子を語る。
 長年、組合に務めた角田修司さんも、「トメアスーは指導者に恵まれていた。常に組合主義が基本になっている」と語り、「沢田さんらが中心になったアカラ農民同志会はCAMTA(組合)の〃中興の祖〃です」と高く評価した。
 『トメアスー組合公認六十年史』を編纂した下小薗昭仁さんは、「戦前からの組合の議事録を読み返しましたが、激論になったときでもきちんと賛否両論、誰が言ったかまで書き残している。例え議論が分かれても、どちらの側にも強烈な組合精神が貫かれている。あれを読んだら感動しますよ」とのべ、多くの紆余曲折を越えて前進してきた組合の内実を説明する。
 入植者の大半が脱耕する悲劇を越えて同地でふんばった若者たちは、植民地を主導して改革を成し遂げ、黄金期への道を〃開拓〃した。(続く、深沢正雪記者)

写真=トメアスー組合のピメンタ倉庫の中。天井近くまで六十キロ入りの袋が山積みになっている

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