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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【モンテアレグレ編】=第4回=高谷信夫・和夫兄弟=「ここにいたら殺される」=アマゾンで続いた〃戦後〃

ニッケイ新聞 2009年12月1日付け

 モンテアレグレへの移民は、市街地から北に15キロの地点、サンタローザにあった海協連の種苗園(元南拓の土地)、さらに7キロ北上し、東に10キロ入ったアサイザール、そして市街地から北に58キロのドイス・ガーリョス(途中に南拓の事業地だったムラタがある)に入植した。
 53年の初入植から約半世紀。現在、移住地に住む人はほぼおらず、他の地に移ったか、市街地に住んでいるかである。
 最後の農大生、大竹秋廣さんのお宅を辞した後、すぐ近くにある高谷和夫さんの長兄、信夫さん宅へ向う。
 「ここに来て54年経つけど…何も変わってないですね」
 アマゾンとは思えない見事に手入れされた庭が美しい。心地よい風が吹き込む自宅のポーチで、高谷信夫さん(71、長崎)は背筋を伸ばして笑った。
 戦後。職業軍人だったことも影響してか、父の古賀野さんにとって厳しい時代だった。考えた末、妻モモエさんと5人の子供を連れ、移住を決意した。
 「父の『ブラジルに行ったら米が食えるぞ』って言葉に釣られたんだね」。当時15歳だった長男信夫さんは振り返る。
 55年、鍋や布団などの携行品をドラム缶二つに詰め込み、あめりか丸で渡伯した。
 8歳だった和夫さんにとって、ベレンで乗り換えた船内の様子は未だに忘れられないブラジルの原風景となっている。
 「雑魚寝で2週間。ピラルクーの塩漬けの独特の匂い。ひどい下痢もしてね。停泊中に牛に草を食ませたりするんだけど、食べるために船の上で屠殺するんですよ。こっちは小学生でしょう。強烈でしたよ」
 サンタレン南にあるベルテーラ移住地のゴム農園に雇用農として入植したが、その生活も2カ月ほどで終わる。
 ブラジル政府は、契約と実際の条件の違いを問題視した日本移民に様々な理由をつけて、一方的に退去命令を出し、開拓移住地を斡旋した。
 一家は再度、アマゾン川を下り、モンテアレグレの市街地から約32キロにあるアサイザール植民地に入った。
 「蚊、蛇、マラリア…ここに居たら殺されると思いましたよ」(信夫さん)
 マラリアには家族全員が罹り、高熱と悪寒に悩まされ、ひどいときは2カ月も続いた。1週間意識不明だったこともあるという和夫さんは、「病院に連れていった母の血管が細いため、ブドウ糖が打てず、一時は皆で死を覚悟した」と過酷な体験を思い出す。
 慢性的な栄養失調、貧血、黄疸―。家族は日に日に弱っていった。
 そんな時にアマゾン先生といわれた細江静男医師が巡回診療で訪れ、「豚肉と塩を食べなさい」と家族に説いた。撒かれたDDTで家の中は真っ白になった。
 マラリアは完治が難しい。「何度もぶり返し、20年は悩まされました」と二人は声を合わせる。
 ジャングルに入り、動くものは何でも狩り立てた。クチア、鹿、アルマジロ、ビーバー。
 「色々食べたけど、アンタ(バク)だけはフェリーダ・ブラーボ(森林梅毒)の傷口が膿むから良くなかったね」と話す和夫さんは9歳で炊事を担当、「マモン(パパイヤ)の根っこが大根に似ていることを発見してね。あれは味噌汁にしたら美味しかった」と相好を崩す。
 苦しい初期の開拓生活。米や豆などは、無肥料でよく出来た。塩漬けの肉や魚が時々手に入ル程度。長くかぼちゃの新芽や芋の蔓も大事な食料だった。
 信夫さんはいう。「日本の戦後がアマゾンに来てもずっと続いたようなものですよ」。
(つづく、堀江剛史記者)

写真=高谷信夫さん。妻寿美(としみ)さんも53年にモンテアレグレに入植した

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