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二世とニッポン語問題=―コロニアの良識にうったえる―=アンドウ・ゼンパチ=第3回=〝ニッポン〟を伝える日本語

ニッケイ新聞 2010年2月11日付け

 ニッポン語教育の根本目的は、二世とは何か、また、コロニアにとってどうあるべきか、ということが、はっきりきめられていないと、正しくつかまれない。二世は、一世にとって、その子である。しかし、ブラジルにおける一世は移民としてきた外国人であるが、二世は生来のブラジル人である。
 このような外国人とブラジル人が、血の上では親子の関係でむすばれながら、日系コロニアという特殊な社会を構成しているのである。この社会の発展は、経済的にも、文化的にも、一世と二世との密接な協力によってのみ、順調にいくので、二世が、まだ社会的に活動できなかった初期のコロニアのことを思えは、このことはすぐ分るだろう。
 一世のブラジル移住が、ここで花やかに実を結び、経済的にだけではなく、文化的にもブラジルの発展のために、できるだけの力をそえるようになるのには、一世だけが孤立していたのでは、とうていすばらしいことは望まれない。日系コロニアが二世との密接な協力の上に築かれてこそ、ニッポン民族がブラジルへ移住したことが意義のあるものとなりうるのだ。
 そして一世と二世とのつながりを密接にして、その協力を完全にするためには何よりも必要なものは、コトバである。しかも、そのコトバは、一世のもつ、すぐれた才能、技術、また一世の母国ニッポンのいい文化を二世を通じてブラジルに伝えるために、ニッポン語でなくてはならない。
 このように考える時、二世の立場は、たんに、よいブラジル人であるというだけではすまされないものがある。二世は、ブラジルを母国とする立派なブラジレイロであるとともに、一世の気もちを理解し、ニッポンの文化に深い関心をもつニッポン人の子どもであることによって、二世という特殊な立場が、かがやかしい社会的な存在となるのである。
 このような一世と二世との関係は、二世と三世との間では、もはや大きな意義はないだろう。
 だから、コロニアにおけるニッポン語教育の問題は一世と二世とにかかわる大きな問題で、両者が民族の移住ということを社会的にも、文化的にもかがやかしいものとすることに価値を認めるなら、コロニアにおけるニッポン語の問題が、たんに一世の民族意識によるものではなく、それをこえて、社会的に、文化的に重大な意義があることを認めることができるだろう。

二世の人間像

 人間像とは、人間の形をした彫像などのようなものではない。ひとりひとりがもっている、ものの考え方、家庭や社会での生活の仕方、すなわちある人間をつくりあげている心理的な要素や習性といったものを、一つにまとめあげたものとでもいっておこう。
 だから、ひとりひとりの人間は、それぞれに個有な人間像をもっているが、その人が、ニッポン人なら、ニッポン人的な人間像もつくられるわけである。だから、ある人のニッポン人としての人間像が、おかしいと「あれはニッポン人らしくない」といわれるのである。
 そこで、いったい、二世は、そういう見方からどんな人間像のものかということを考えてみたい。二世は、いろいろな意味でコロニアの問題になる存在であるが、なぜ二世がそんなに問題にされるかというと、一世の人間像と二世のそれとが同じニッポン人の子でありながら、ちがっているからだといえる。(つづく)

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