ホーム | 連載 | 2010年 | 沖縄からシベリア、そして南米へ=~松本實隆さんの記憶 | 沖縄からシベリア、そして南米へ=~松本實隆さんの記憶=(上)=出稼ぎの満州で召集、抑留=大工の技術が身を助け

沖縄からシベリア、そして南米へ=~松本實隆さんの記憶=(上)=出稼ぎの満州で召集、抑留=大工の技術が身を助け

ニッケイ新聞 2010年9月15日付け

 今年6月、日本の国会で元シベリア抑留者に一時金を支給する特別措置法が成立した。第2次大戦後にシベリアへ抑留され、強制労働に従事した人で、法律施行日時点での生存者を対象に、抑留期間に応じて一人25~150万円を一時金として支給するものだ。敗戦から65年。遅すぎた法律の該当者は、ここブラジルにもいる。極寒の地での過酷な体験を胸に帰国し、再び新転地へ渡った人たちがいる。その一人、松本實隆さん(86、沖縄県)は現在、サンパウロ市サンマテウス区に暮らす。沖縄からシベリア、そして南米へ―。時代の変転の中を生き抜いてきたその人生を振り返ってもらった。(松田正生記者)

 がっしりとした肩と、短く刈った白髪頭。数えで88歳の今もゲートボールを楽しむ。
 沖縄県大宜味村出身。那覇で大工をしていた松本さんがシベリアへ抑留されたのは、満州へ出稼ぎに行ったことが始まりだった。
 1944年に渡満、当時の奉天省鞍山にあった昭和製鋼所で働いた。出稼ぎの前に沖縄で結婚しており、〃単身赴任〃だった。
 徴兵検査で乙種合格だった松本さんは、45年1月に満州で現地召集され、衣・食料の補給などを行なう輜重部隊(部隊名は「サムラ隊」とのみ記憶)に属し、現吉林省の琿春で任務に当たる。
 同年8月9日にソ連が対日参戦。武装解除後、松本さんたち日本軍兵士を乗せた貨物列車は、「日本へ帰る」との期待とは逆に北方へ向かった。一日をかけてたどり着いたのは、ハバロフスクのコムソモリスク。松本さんらはソ連の兵舎として使われていたような建物に入れられた。そこから3年間の抑留生活が始まった。
   ▽   ▽
 松本さんたちが収容された第18収容所には、約1000人の日本兵が抑留されていたという。
 収容所では朝7時に起床。8時にはそれぞれの労働へ向かった。仕事はノルマ制。10人に一人、モンゴル人の監視がついていた。
 大工の技術があった松本さんは、伐採や道の舗装といった屋外の労働ではなく、兵舎の床板張りなどに従事した。一年ごとに仕事が替わり、最後は馬の蹄鉄の目打ちをした。「年配の人や体力のない人から亡くなっていった。亡くなった人はどこかに運ばれ、会えなかった」と振り返る。「自分は年も若かったし、技術があったので幸いだった」
 収容所には分かっているだけで3人の同県人がいたそうだ。うち一人とは「早く帰れた方が伝えよう」と伝言を交換したが、急な帰国だったため、その人が戻ったかどうかは分からないという。
 当時20代前半だった松本さんにとっては、寒さとともに、食事も「辛かった」ことの一つだ。
 朝は高粱のパン。5、6時に労働を終え、夜は米や粟のご飯とスープ。日曜日は休み。昼食も支給されたが、「腹が減って昼前に食べてしまう」。仕事に向かう途中の畑でじゃがいもを盗んでポケットに入れ、飯ごうで炊いて食べた。
 収容所では野菜不足の食事が被抑留者の健康を害した。足の毛が生えなくなり歩けなくなる人、夜盲症になる人もあり、仲間が部屋まで食事を運んで食べさせたという。
 松本さんを助けたのはヨモギの存在だった。本土ではそうでもないが、沖縄では一般的に食する野菜。雪解け後の大地に「びっしりと」生えたヨモギを鍛冶屋仕事の間に炊いて握り、夜のスープに入れて食べて健康を保った。
 辛い抑留生活の中で松本さんを支えたのは、沖縄で身に着けた技術と、ふるさとの食文化だったのかもしれない。(つづく)

写真=抑留生活を振り返る松本さん(隣は孫のキヨシさん。9月5日、自宅で)

image_print