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日伯両軍から召集された二世=出頭日は終戦の2日後=帰伯後も徴兵でポ語鍛え=「僕だけじゃないか」

ニッケイ新聞 2010年9月23日付け

 戦前に勉強のために日本に送られた菅貫太さん(すが、84、二世、二重国籍)に日本帝国軍司令部からきた「赤紙」の出頭日は、なんと1945年8月17日――終戦の2日後だった。3年後に帰伯したら、今度はブラジル陸軍から徴兵され、言葉もわからないのに一年間、務め上げた。終戦65周年を機に、日伯で軍隊から召集された珍しい二世の人生を追った。

 1926年9月にサンパウロ市で生まれた菅さんは「親は10歳だったボクと、11歳の姉、二人を船に投げ込んだんですよ」と笑う。父・譲一(後に帰化してジョルジ)、母・ヒデコは13年ごろ渡伯した初期移民だ。長男の菅さんと姉の子供2人だけで2カ月間の船旅を経て、山口県豊浦郡の父親の実家に送られ、中学校に通った。
 「寄宿舎の廊下であいさつが悪いと上級生にぶん殴られた。まったく軍隊式でしたよ」。あと一カ月で18歳という45年8月初め、山口連隊区司令部から中国第121部隊への召集状が届いた。集合日は17日午後2時だった。
 6日には広島、9日には長崎に原爆が落とされ、15日に終戦の玉音放送があった。16日に広島市へ一人でいった。「瓦礫の後片付けを手伝わんといかんだろうと思って」という。念のため17日に広島の部隊に出頭すると「軍服と靴をくれ、もう帰っていいといわれた」と思い出す。
 48年5月、ブラジルの父親が航空券を手配して、姉と二人で帰伯した。「シネマ屋の斎藤さんの娘、長谷商会の息子とかすでに数人の帰伯二世がいた」と記憶する。
 翌年、ブラジル陸軍の徴兵を受けた。カンピーナスの第一軽戦車部隊に配属されたが、日本での教育経験しかない菅さんには「エウもボッセも分からなかった」という。
 「整列して国歌を歌っている時、ボクは口マネ格好すらできなかった。カピトン(大尉)に見つかって、『オマエ国歌知らんのか。一週間で覚えて俺の前でもう一回歌え!』と命令された。もちろん覚えました。日本みたいに殴られることもなかったですよ」と振り返る。
 そのおかげでポ語もおぼえ、「今じゃポ語のが楽」といい、「家内は二世だが、彼女の方が日本語はなすぐらい」と笑い飛ばす。除隊後はサンパウロ市セントロで家具商をしていた父を手伝っていたが、60年に結婚したのを機に、リベルダーデ大通りのカーザ・ポルトガル向かいにガラス販売ビドロス・リベルダーデ店を開業した。今年は開店50周年、金婚式でもある。
 店内には今も召集令状が額に入れて飾ってある。「みんな見たことないっていうから、大事に飾っている。帰伯二世でこっちの軍隊に入ったのは僕だけじゃないかな」。日伯両国から召集された経験は、移民史の中でも間違いなく珍しいに違いない。

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