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日本航空運休に捧げる投稿=〝一抹の淋しさ〟=石崎矩之(元旅行代理店勤務)=(上)=伏し拝んだ日の丸の翼

ニッケイ新聞 2010年9月24日付け

 コロニアの有志で署名運動まで起こした日本航空(JAL)の南米路線は努力の甲斐もなく、この27日で一旦運休ということに決まりました。日本航空としては地球半周という長距離国際線でした。
 誰かの言葉にもありましたように、文字通り「日本とブラジルをつなぐ臍の緒」なのです。
 思えば、1958年の日本移民50年祭の折、とかく問題の多かった日本人コロニアをまとめようとする動きで、日本より宮様をお招きするということになり、御来伯いただく、それには是非、日本を代表する航空会社でということで、ブラジル移民憧れの日本航空が飛来することになりました。初めて「日の丸の翼」がやってきたのです。
 今とは違い、プロペラ機の「シティ・オブ・トウキョウ」号の翼は無事「コンゴーニャス空港」にその機体を降ろしました。
 当時の空港は今のように警備が厳しくなく、ロビーから外の庭に出ると胸の高さ程の、柵の先はもう滑走路で「日の丸の翼」はすぐ目の前に手にとるようにありました。
 お出迎えの群衆の中、老齢の移民が思わず土下座して伏し拝んだという、誠に無理からぬことだと思います。それから後、「シティ・オブ・キョウト」、そして「シティ・オブ・ナゴヤ」と計3度コンゴーニャスにその翼を休めました。1950年代後半から1960年代の頃です。
 「日の丸の翼」というものが単に飛行機のマークとだけは言えないエピソードのひとつでしょう。
 私が旅行代理店という仕事に就いたのは1973年、それはボチボチ機運が高まり始めた訪日のお客のため「チャーター便」と称する不定期便開始のためのものでした。
 当時、コロニアの旅行代理店は「日伯交通社(現存のツニブラ)」と「ウニベルツール」というIATA(国際旅行業者協会)の正式加入社の他、国内の業者協会加入の会社が、その頃既に「日本人街」を形成していたリベルダーデ附近に集まっており、凌ぎを削っておりました。
 チャーター便は初め、既にブラジルと日本の間に路線化していたヴァリグ社の便を折りに触れブロックチャーター、あるいは当時健在だったアメリカのパン・アメリカン航空の便を一部貸切ったりしておりましたが、是非、日本航空もということになり1974年にはヴァリグ社と日本航空のいずれかを不定期にチャーターするようになったのです。
 戦前、戦後を問わずまだ元気だった一世移民のお年寄りのため、せめて一目でも懐かしの故郷を見せてあげたいという成人した二、三世の方々の気持ちと経済的な努力とでこの「ふるさと訪問チャーター便」は続きました。
 勿論、附随して数多くのトラブルもありましたが、稿を新たにいたしましょう。
 その実績の結果、移民70周年の年(1978年)に、いよいよ日本航空の「定期路線」化が実現したのです。(つづく)

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