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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2011年6月3日付け

 岩手県山田町の菊地光明課長は、JR陸中山田駅横の踏切の前で車をいったん停車させ、左右を確認しようとして、「(電車が)来ないって分かってるんだけど、習慣になっちゃっているんですよね」と苦笑いした。あたりには捻じ曲がった線路、瓦礫とそれを撤去した平地が一面に広がる。路線の復旧のめどすら立っていない。そんなこと、頭では重々分かっていても身体はつい反応してしまう▼被災地では生活のあらゆる場面で〃あるべきもの〃がないことを痛感している。人はふつう日常の習慣という〃海〃に身を任せきって漂うように生きている。歯を磨く順序をあまり意識しないように、歩き出す足をどちらか考えないように、身体に覚えこませた習慣に身をゆだねている。そのような積み重ねで〃日常〃がなりたつ▼それが根こそぎ奪われてしまうことは、どれほど奥深い喪失感をもたらすものか想像もできない。失った大切なものの大きさを噛み締め、それに慣れようと努力し、意識する日々の辛さが菊地課長の苦笑いから伺われた▼もちろん、最大の喪失感は人だ。こんな辛い気持ちの時は誰それに聞いてもらう、こんな気分の時は幼馴染の誰それと酒を飲むなどという習慣もある。そんな膨大な日常の積み重ねが、大地震と津波のわずか1時間以内に奪われてしまった▼以前も、被災地の仙台市民がゴミの分別収集をしていることは、日常の動作を繰返すことで精神の安定を得ることでもあるのではと書いた。でも、電車が通らない線路で安全確認しても、おそらく心は安らがない。時間が解決してくれるのをじっと待つしかないことも、人生にはきっとあるのだ。(深)

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