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水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第7回=国際的国粋志向のどこか=華麗なる慶應義塾人脈

ニッケイ新聞 2011年8月19日付け

 大隈重信に爆弾テロを行った来島恒喜は、福岡藩士の息子として生れ、中江兆民に仏語を学び、玄洋社に参加した。来島は水野の1歳年下であり、同じような時代の空気を吸って、同じようなことを考えた人物だ。わずかな違いは、爆弾を入れた箱が湿気ていなかったことだろう。
 テロの後、あの勝海舟によって谷中(やなか)霊園に来島の墓が作られ、その後、玄洋社の総帥・頭山満(とうやま・みつる)によって建て替えられた。来島の行為は同時代の特定の集団から強力に支持されていた。水野の場合も当然、支援者がいたと考えられる。
 頭山は福岡県出身、水野の4歳年上だ。明治から昭和にかけてのアジア主義者のリーダー、右翼の巨頭になった。総帥をしていた玄洋社は、民間の国家主義運動の草分け的といわれており、後の愛国主義団体や右翼団体の先駆けだ。
 中江兆民や吉野作造などの民権運動家はもちろん大杉栄などのアナキストとも交際があり、さらに犬養毅、大隈重信、広田弘毅などの大物政治家にも広がる人脈を持っていた。そのような方向性のどこかに水野はいたに違いない。
 頭山が顧問をしていた黒龍会(こくりゅうかい)は玄洋社の海外工作機関ともいわれ、のちにブラジルで勝ち負け抗争が起きたとき、その黒幕として暗躍していると伯字紙に大々的に書きたてられた。1901年に設立され、46年にGHQによって最も危険な国家主義団体として解散させられた。その活動は孫文の中国革命支援、ラース・ビハーリー・ボースの亡命支援とインド独立運動、フィリピン独立運動などだ。同会発行の機関誌記者として北一輝が上海に派遣され中国革命を支援したという。
 この国際的な国粋性向は、戦前のコロニアの指導者層にも濃厚に漂うものであり、水野という存在自体がその流れの発端であった可能性は否定できない。
 頭山が建てた谷中墓地の墓石の傍らには、勝のそれも残されているという。勝は灯篭も寄贈しており、そこには「暗夜の灯」との文字も彫られていた。だが官憲の命により削られてしまった。幕末の開国派から続く志の一端を、水野も共有していたのだろう。
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 水野は士族の生まれだが裕福ではなかった。北米にいく旅費すらなかった男が電力会社、移民事業を興していく背景には慶應人脈があった。
 「(慶應)義塾を出て間もなく同窓の友人と語らい北米渡航を企てたが旅費の調達が出来ず実現を見なかった。然(しか)しこの時の渡米組は何れも実業界に成功したので、後年水野の企画する凡ゆる事業の資金を担当して呉れた」(『略伝』7頁)とある。
 この北米組の「同窓の友人」が影のスポンサーとなり、水野が企画するあらゆる事業に資金を出した。一体これは誰なのか。後にアマゾン移民の道を開く鐘紡社長の武藤山治(むとう・さんじ、愛知県=当時は尾張藩、1867—1934)と、茶人として有名な高橋義雄(1861—1937年)だったようだ。
 水野は慶應卒業後、水戸で10年間を過ごしている。その間、「一時は巡査を奉職したが、水戸派の国粋的影響を受け」(同)たとある。水戸に出向いたのは、高橋義雄が水戸藩士の生れであったことと関係があるかもしれない。
 高橋は慶應を卒業したあと、福沢諭吉が創立した時事新報記者を経験した後、米国に渡った。帰国後の1895年に三井呉服店の経営の近代化に携わり、三越デパートの繁栄の基礎を作った人物として有名だ。50歳で引退し、茶道三昧の生活にはいり、各界の名士と幅広い交際をし、茶道に関する多数の著書を記している。
 水戸藩はもちろん徳川御三家の一つだが、尊皇を主張して朝廷側にたって藩の分裂を招き、明治維新時の悲劇を演出した。各地の藩校では水戸学に基づいた「愛民」「敬天愛人」などの思想は西郷隆盛や吉田松陰などの幕末の志士に大きな影響をもたらし、水戸学に基づく尊皇攘夷思想が明治維新の原動力になったといわれる。
 勤王の志士として育ち、民権運動家となった水野にとっては原点に回帰し、性根を据えるような月日を水戸で過ごしたかもしれない。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)

写真=勝海舟(ウィキペデアより)


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