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寄稿=清谷益次さんに捧ぐ=サンパウロ市 安良田 済=(上)

ニッケイ新聞 2012年10月27日付け

 本紙の前身、パウリスタ新聞で記者をし、勝ち負け抗争時代を駆け抜けた清谷益次さん。その後、コロニア文芸界、短歌界のリーダーの一人として活躍した清谷益次さんが今年6月14日に亡くなった。旧友である安良田済さんがその貢献と人柄を振返る一文を寄稿してくれたので、社の先達の遺徳を偲ぶ意味で、本紙15周年記念別冊がでたこの機会に掲載する。(編集部)

 老兵は消えて行く。去る6月15日、清谷益次さんは眠るがごとくあの世に移っていった。享年96であった。翌日コンゴーニャス墓所に埋葬された。故人の意志であったらしく、葬儀は密葬のかたちで行なわれた。出棺直前のお経もあげられず、ミサも行なわれなかった。会葬者もごく限られていたようである。
 葬儀を密葬のかたちにするように指示したらしいと私は感じている。それは彼の思想であると納得できるのである。初七日のミサはない、四十九日も行なわないらしいとのことも私には納得できた。正に潔いよいという感じであった。
 翌日、私はニッケイ新聞に電話をかけた。清谷さんの死亡通知はまだ入っていなかった。私は迷った。恐らく新聞社に知らせないように、前もって家族に口止めしているかもしれない。友情を裏切ることになる。迷ったあげく、新聞社に通知することを決意した。死んだ人には死んだ人としての事があるのであろう。生きている人には生きている人としての事情がある。
 清谷さんから無形の恩恵をこうむった人はどれだけあるかわからない。この人たちは清谷先生が亡くなられたことを知らずにいるほうが好ましいと言えるのか。私が死んで清谷さんの霊に会ったら、〃裏切り〃へのどんな仕打ちも受けよう、と考えて決まった。
 武本由夫、徳尾渓舟が亡くなってからは、清谷さんはたった一人の戦前からの指導者であった。自分で創作しなかったが、文学の世界にたっぷり浸かっており、種々の文学賞の選考委員をつとめていた。特に日本語の文法に詳しく、歌人、俳人たちを相手に紙上で文法論を論じたのは有名であった。文学賞の作品を選考する場合、先ず全文が文法的に正しくなかったら、没にした。どんなに優れていても、賞には推薦しなかった。選考委員を相手に議論をし、相手が引くまでは引かなかった。文学だけではなく、コロニアの生活が文化的に向上することをつねに願っていた。協力を求められればつねに協力してきた。
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 清谷さんとの交際は1947年から始まり、現在に至っていた。もちろん短歌を通じてである。彼は何についても私より一枚上であった。しかしウマが合ったというのか、議論をしたことはない。『椰子樹』の編集を通算20年以上二人で担当したことがあるが、一度も見解の相違はなかった。
 彼は日本で尋常4年生まで学んでブラジルに来た。以後、学校というものに一回も通っていない。彼の博識はみな独習から修めたものだった。彼は小学校に入った頃から頭がいい子という評判が高かったそうである。学校は4年生までしか通っていないが、後年5冊の本を書いている。
 その中の一書『遠い日々のこと』は、コロニア文学賞を獲得した傑作である。私がいつも敬服しているのは、彼は決して自慢しないことである。自己誇示を絶対にしない人であった。
 また、ものごとの善悪のけじめが、自他に対して厳しかった。他者に厳正を要求するには、先ず自らに厳しくなければならないという論理を貫いていた。
 さきに書いたように、一家が入耕したファゼンダ、次に移転したファゼンダには日語、ポ語の学校はなかった。勉強好きな彼にはこれは苦痛であった。後に本を書くとき、彼は勉強不足を知りながら自分なりに悔やんだにちがいない。しかし、見方を変えて言えば、学問不足を自覚したが故に多くの知識を吸収したと言えるかもしれない。

 『時計ぬすっと』

 清谷さんには5冊の著書のあることは既に書いた。その中にコロニア文学賞を受賞した『遠い日々のこと』という一書がある。少年時代の回想文である。特に『時計ぬすっと』は著者の性格をよく反映した作品であるから、その粗筋を書いておく。少し長文になるけれども諒解願いたい。
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 益次はある日、父と一緒に表の部屋に居た。そこへ巡査が時計屋の主人を連れてきた。父は二人を奥の部屋に招じ入れた。しばらくすると父が出てきて、益次に「お前は時計を盗んだ。そうじゃないか」と問う。びっくりした益次は「ぼくは盗みなんか絶対にしないよ」と強く否定する。
 父はもう一度確かめて奥へ入る。またしばらくして父が出てくる。
 父は「困ったことになったんだ。お前が盗んだことにしておかないと、具合が悪いことになるんだ。ここはお前が盗んだことにしないと、大事になりそうなんだ。だから、お前が盗んだんじゃあないけど、盗んだことにせにゃならん。だから巡査さんに盗んだとウソの白状をしてもらいたいんだ。何もわるいことは起らない。すべてはお父さんがうまくつくろうからな」と厳しい表情でいう。益次は事情はよくわからないが、父の表情に押されてうなずいた。
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 こうして益次は時計泥棒ということになった。それから間もなく清谷家はブラジルにやってきた。ファゼンダからファゼンダに移転する、あわただしい生活は時計事件を忘れさせていた。益次も自分の将来について考える年齢になったとき、ふと忘れていた事件を思い出した。そして警察署の大帳に「清谷益次(10歳)は時計を盗む」と記入されていることを思い出した。あの名を消しておかないと2百年、3百年でも自分は時計ぬすっとであると思うと心が落ち着かなくなり、30年、40年と年月は過ぎた。けれども訪日旅費を捻出する予算はなかった。(つづく)

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