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工業移住 秦野生50周年=最後発の戦後移民群像=(下)=ブラジル社会へ溶け込んだ人生

ニッケイ新聞 2012年12月1日付け

 3期生の佐藤隆さん(70、岩手)は、オリンピック景気の只中にあった1963年に渡伯した。日本の急成長を予感しながらも「日本で生まれて日本で死ぬより、別なことをやってみたくなったんだろうね」と自らの人生を振り返る。茨城県にあった日立を辞め、移住に踏み切った。
 初めはヨーロッパ系の企業に15年、次にリオの日系造船所に16年勤務した。日本移民が培ったブラジル社会での信頼は大きく、人種差別は受けずに生きてきた。しかし外国系企業の中でもまれるうち、「日本人は言われたら『ハイ』というのに、お前は文句を言うし、喧嘩もする。日本人じゃねえ」と同僚からからかわれるほどのしたたかさを身に付けた。
 佐藤さんは「そうでなければ生き残れなかったから、しぶとくなったんだろうね」と移住後の変化を振り返る。
 一方で「ヨーロッパ人の中にいると、自分もヨーロッパ人みたいな気がしてくる。家に帰って自分の顔を見ると日本人で、変なもんだなと思った。時々日本人に会うと、妙に引け目を感じた」という複雑な心境にも陥った。日本人アイデンティティがぶれるほど、ブラジル社会に溶け込んでいたようだ。
 「僕はあまり同船者や秦野生との付き合いはない。ブラジル社会にはまっちゃって」と同様に語るのは、21期生の平田保さん(62、福岡)だ。1972年、23歳で渡伯し大学に進学、現在グァラチンゲタ市のサンパウロ州立大学(UNESP)で教鞭を振るう。
 「自費で行くのが難しい、一番遠い国に行ってみたい。2年くらいで帰国しよう」と初めは海外旅行気分でやってきた。
 日本にいた頃はマツダで自動車設計をしていたが、残業、残業の毎日で、休みは月二日という仕事三昧の生活だった。「ブラジルの気候も、働く条件も気にいった」と永住を決めた。
 初めは中田自動車部品工業に勤務、条件は悪くなかったが「ブラジルにいるなら、もっとポ語をやらなきゃ」と1年半で飛び出し、現地の自動車部品工業「WAPSA」に入社した。何でも納得いくまで追求する性格で、ポ語に磨きをかけるため大学入学し、そのまま教授への道を歩んだ。以来約30年間、今に至るまで現役で教壇に立つ。
 成人後に渡伯し、大学教授になった人は珍しい。それでも当地の大学に進学した人は他にも何人かいたと聞いた。
 また、数年で帰国するつもりで渡伯した秦野生も彼だけではない。飛行機移住という手軽さのせいか、後発組ほど帰国者は多いという。〃移住科〃とはいえ、そこには錦衣帰郷を飾らんとした初期の移民の決意や、「二度と帰国できないかもしれない」という悲哀は感じられない。
 航空機の発達で日伯間の移動が楽になった今、ブラジルを訪れることは人生の一大事ではなくなった。「移民」と一括りに言っても、秦野生の持つ感覚は、後半の移住者になればなるほど近年の日本人一時滞在者の感覚に近くなるようだ。
 移住最終年は、「そんな年にまだ移住者がいたの」とすら言われる80年。もう少しでデカセギが始まるような頃だ。彼らの移住史が今後さらに紐解かれれば、日本人移住史に新たな一節を加えることになるだろう。
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 記念同窓会では食事後、桜とイペーの苗木を植樹し、各期で記念撮影をした。最後に大矢進貞さん(4期生)から、参加者から現状、感想、抱負を募り、会報を作る旨が伝えられた。
 50年ぶりに集まりに出席した市木原健さん(けんじ、64、大阪)は、「昔は喧嘩もしたけど、50年たった今だから、皆仲良かったと分かる。懐かしい人ばかりだった」と穏やかな笑顔を見せ、中里堅司さん(3期生、72、神奈川)は「古い人たちと会って笑顔かわして、フェリシダーデになりました」と陽気に語った。(終り、児島阿佐美記者)

写真=佐藤さん/平田さんと妻のセーリアさん

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