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《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談=最終回=「釼二は偽らなかった」=元妻の手のひらの上で

ニッケイ新聞 2013年2月19日

群馬県に住んでいた讃南(孫アインの承諾によりFacebookから転載)

群馬県に住んでいた讃南(孫アインの承諾によりFacebookから転載)

 山崎の死後にアインが独白を寄せた『曠野の星』にはこうある。《私の生涯で一番幸福だったのは、山崎がボルネオの県知事時代だったので、皆から尊敬されました(中略)私の未熟さを一生懸命教育してくれました。本当に『南十字星は偽らず』でありました》
 その一方、藤原道子は違った認識をしていた。『婦人公論』いわく、家長として父と共に移住した長男嶺一の妻雅江から娘栄美宛にきた手紙に、こんな一節があった。《お父さま(山崎)は亡くなる前には非常に御自分の行いを後悔して、『アインとの結婚で自分は一生をあやまった。病気がよくなったら、アインと別れて、子供たちは息子と嫁に頼み、新しい生活を建て直したい』と周囲の方々に話しておられたそうです》。
 さらに《山崎はアインさんの目をぬすんでは嶺一の家をたずねて、息子夫婦の長男を可愛がり、この子が私の唯一の希望だといつも語っていたとか申します》とも。
 どっちの山崎が本当だったのか——。
 社会主義思想と親を喜ばせたい一心で転向して軍政に協力した心情、年上の正妻と年下の愛人、さらには南洋の代わりに南米、政治家と開拓移民—など山崎の気持ちは、人生の様々な局面で極端に大きく揺れた。そして一旦切り替えたら、もとの道には二度と戻れない何かがあったようだ。
 政治家としても才能があり、夫としても子ぼんのうで、文才にも恵まれていた。惜しむらくは、それぞれの才能を貫くのに相応した意志の強さが足りなかったのか…。
 その息子讃南は母アインと帰国しなかったが、なぜか人生の最後の10年余り日本で過ごし、そこで死んだ。讃南からは連邦大学を卒業するような優秀な子孫が続々と育っている。であれば山崎が興南、栄楠、讃南という子供の名に込めたと南洋発展の夢は〃南〃米のそれとなって実現されつつある。南洋ボルネオ、南米ベレン、サンパウロ市、リオ、ゴイアスと南半球を股にかけた移民家族の歴史は〃明治の日本人〃的なスケールを感じさせるものだ。
  ☆   ☆
 58年2月、山崎の訃報が伝えられると、弔問客が静岡県の藤原道子の家に殺到した。四十九日法要を沼津の寺でやる準備をしながら、栄美は「お父さんは、死んでまでお母さんの家に居候する」と言い、とめどなく涙を流したという。藤原は「お母さんはいつも尻拭いをしてきた、だから、これでいいのよ。これがお母さんの運命なんでしょう」と娘を慰めるようにいった(『婦人公論』)。
 山崎の死後、宮尾は「藤原道子からアインさんによく手紙が来ていた。アインさんの代理で返事を書いたこともある。でも内容は忘れてしまったな」という。坂尾は「アインさんは結局2人の夫にも先立たれてしまった。戦争に引っ掻き回され、二人も夫を亡くした。戦争ゆえの波乱の生涯だった」という。
 田形は「アインさんが日本に連れ帰った朱実ちゃんは藤原さんが養女にして世話し、アインさんの世話も藤原がみたと私は聞きました」と証言する。そうなら藤原は結局、元夫の人生をまるごと面倒見たのかもしれない。地球の反対側まで来た山崎だが、元妻の手のひらの上だったか…。
 山崎の没後55周年にあたり、坂尾は「その存在が忘れられないよう、ペルイベで彼が開拓した道路にYAMAZAKIの名をつけられないか」と提案した。(終り、深沢正雪記者、敬称略)

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