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森和弘の秘められた過去=勝ち負け抗争と二世心理=(5)=銃を携帯した高校時代=武装した負け組の報復

ニッケイ新聞 2013年6月5日

緊迫した当時の様子を示す、「国賊」と殴り書きかれた写真店(『コラソンイス・スージョス』266頁)

緊迫した当時の様子を示す、「国賊」と殴り書きかれた写真店(『コラソンイス・スージョス』266頁)

 『移民八十年史』(170頁)によれば襲撃者名は「不明」で、和弘も取材時に「おそらく他の町から来たモノに違いない」と推測した。でも『コラソンイス・スージョス』(201〜203頁)を確認すると、当時の警察調書を元に次のように事件の様子が詳述されていた。
 2人の日本人が拳銃をもってバールに乗り込んできたのは午後7時5分。二つのビリアード台があり、ブラジル人常連が興じ終え、養父五一(47歳)に清算を頼んで、ちょうど時計を見た時だった。近所で理髪店を経営する実父丸伊(当時、54歳)はバールのカウンターの中に座っていたという。
 拳銃を持った二人組の一人は島野ナミデで、もう一人はオハラ・ヒロシだったとある。オハラはなにも言わずに丸伊を撃ち、ドアを通って裏の居間に逃げ込もうとした五一を、島野が撃ったという。五一の妻は、破裂音を冷蔵庫のダイナモが爆発した音と勘違いしたが、すぐに襲撃と気付き、夫の銃を持って店に行ったが、すでに夫は床に倒れて息絶えていたとある。
  ☆   ☆
 翌1947年に和弘は州立高校進学のために出聖した。「周りから『お前も危ない』と言われ、身の危険を感じていた。和弘は取材時にも「犯人が誰だか判明していないと思う。おそらく他の地方からビラッキにきて犯行に及んだ」という認識だった。
 つまり戦後も「犯人は誰だかわからない、捕まっていない」という恐怖がつきまとっていた。聖市でも「森の息子」として狙われる可能性があったと考えていた。
 だから「18歳の頃、高校時代に私は常に腰にピストルを携帯していた。あの当時、私はピストルを隠すためにどんなに暑くても必ず背広を着ていた」と驚きの告白をする。
  ☆    ☆
 だが、歴史的な経緯を調べてみると、襲撃者の一人島野ナミデは事件以来、ブラウナ市サンマルチーニョ区の日本人シッチオに匿われていたが、46年10月1日午前11時頃に警察に包囲され撃たれて死んだとジアリオ・ダ・ノイチ紙46年10月10日付けが報じている。ブラウナ警察署に密告電話が入り、警察隊が向かったところ長時間の銃撃戦となり、「襲撃者グループ6人のうちの一人が死傷、残り5人は逃げた」と記事にはある。島野はカフェランジア在住の独身青年、28歳だったという。
 公式記録にはそうなっているが、『コラソンイス・スージョス』はさらに一歩踏み込んで取材し、驚くべき事実を暴露した。
 実は同著作、島野ナミデが死ぬ場面が最後の山場で、320〜321頁で警察隊の追手の様子を詳しく描写する。アラサツーバ署からの支援も加わり、「日本人友人の支援を受け」ていたとある。
 勝ち組集団の襲撃を受けた負け組側ファゼンデイロがトラックを出し、射撃に長けた日本人青年数人を加勢させていたと明らかにしている。つまり、単なる警察隊による追跡でなく、〃血塗られた7月〃で家族や友人を殺された負け組が報復のために武装して加わった混成部隊だったようだ。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)

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