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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (78)=バストス写真帳後、引揚げ=各地で貴重な写真残す一家

ニッケイ新聞 2013年11月27日

安中裕さん(2009年12月11日、ロンドリーナ市の自宅で)

安中裕さん(2009年12月11日、ロンドリーナ市の自宅で)

 1933年当時、白米一俵12ミル、牛肉1キロ800レース、ピンガ1リットル1ミルの時代に、12×18(6枚)の写真代が28ミルもした。だから当地で印刷したら高くなりすぎて売れないと判断し、写真原版をもって33年2月に単身、遥々帰国して北海道に戻った。350冊印刷し、同年末にはレジストロへ戻った。題字は時の拓務大臣永井柳太郎だ。
 《出来栄えがよかったのでみんなに褒められたが、案外売れないのでガッカリした。一冊伯貨三十五ミルレース也だったに、買えない人が多いのだ。如何にしてレジストロ地帯の農家は貧しかったかと思い〜》と『安中末次郎回想録』(手書き、1965年頃執筆、34頁)にはある。結局100冊が売れ残った。
 写真客が減ったと感じた末次郎は34年11月、聖州奥地へ視察に行き、《パウリスタ延長線が棉景気で素晴らしい》(同34頁)と写真館をバストスに移す決心をした。
 裕は「写真帳を作ったらもうレジストロじゃあ写真の仕事がなくなちゃってね。バストスはまだ日が浅くて良かったんだ。カフェや棉が植えたら良いっていうので移り、10周年の写真帖を作った」と思い出す。35年6月に移転、バストスには4年いた。その間、兄平太郎が末次郎を頼って35年に来ていた。
 転住後、早速『バストス入植十周年写真帳』の製作を思い立ち、《移住地事務所支配人畑中仙次郎氏に申し込み非常に好感を持たれ早速賛成〜》(38頁)となり、36年3月頃から15カ月かけて撮影した。聖市の日伯新聞印刷部に刊行を依頼し、50ミルレースで900冊を作ったというから、出来も良かったがバストスの景気も上々だった。
 ところが38年にはヴァルガス独裁政権のナショナリズム政策により、全日本語学校が閉鎖された。まともに教育もできない現状に嫌気がさした末次郎は、39年7月に家族で帰国した。
 北海道美唄で写真館を開業し、徐々に客も着いた頃開戦となり、写真材料が不足して週に一度程度しか開業できず、食糧も配給制に。末次郎は裕を志願出征させ、自身も美唄の「郷土防衛隊」に入ったが〃軍装〃はナタや包丁という具合だった(43頁)。終戦の玉音放送後、裕はシベリアに4年間も苦難の抑留生活…。
 終戦後は食糧難で熊笹の原始林を開拓して家族を食わせるのに苦労した末次郎は《ブラジルを知っている私としては、アラユル点から生活が楽に感じるので、8人の子供を連れてブラジル行きを決意〜》となった。
 当地に残った兄平太郎に手紙を書き、呼び寄せをお願いするも返事がない。《返事が一年半目に漸く来た。ブラジルでは日本の敗戦をギモンにしていた為、ニセ手紙だと云うので中々返事を書けなかった》(45頁)という経験を経て、国交復帰前の1950年暮れ、13年ぶりに渡伯した。着伯は51年3月、末次郎は50歳だった。兄がいた北パラナのマリアルバへ向かった。
 その後ロンドリーナ市を視察した結果、レジストロ時代の友人夫婦に再会(62頁)し、町がカフェ産業で発展している様子を見て移転を決意した。52年、ドイツ移民が経営していた同地最古の写真館エストレーラを買い取り、シベリア抑留で苦労した裕が経営した。裕が撮った珍しい航空写真が多数残されており、前経営者のドイツ移民が1940年頃から撮ったものを合わせて、初期ロンドリーナの貴重な史料として2012年には同市文化局が写真集『Revelacoes da Historia o Acervo do Foto Estrela』(第2版)を出版した。
 安中家はレジストロ、バストス、ロンドリーナで貴重な写真を残した上、裕の弟・勉(つとむ)もサンビセンチ市で長年写真屋を営んでいる。日伯を跨いで波乱万丈な写真屋人生を送った一家だった。(つづく、深沢正雪記者)

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