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宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(10)

 おれたち夫婦は五十年にちかく、悲喜ともどもに身にうけて暮らしてきながら、ついに心は通じあわなかったのかと、太一は慄然として自分の孤独を知るのであった。
 四十九日の法要はすみ形見分けもすんだのに、太一は千恵のいない日常には慣れそうにもない。妻の不在という現実には屈しても、一日のうち何処かで何かで考えごとをするとかならず千恵がかかりあっているので、時には不安にゆれる日もあったし、折には錯覚幻影にあったこともある。
 太一らの夫婦の部屋は二階の東がわにあって、窓からはカルモ自然公園がながめられた。
 この部屋に寝起きして十年、千恵の匂いはすぐにはぬけそうもなく、太一が室にはいると、千恵が寝台の片側で横になっているような幻視さえみた、時には扉の取っ手がゆるんで、風におされてコトリと戸がひとりで開いた折などは、千恵がはいってきたかと感じることもあった。妻の没後、太一は夢で二回ほど会っている。千恵が寝台のわきに立って、ーレース編みの糸玉なかったかしらーと太一に訊き、洋服タンスの鏡の下の棚を探しているようであった。太一が夢からさめると、当然ながらそこには誰もいなかった。千恵は彼に後ろ姿をみせていたので、太一があとで輪郭づけようとしても、なにひとつはっきりとした映像にはまとまらないのであった。
 またこんなこともあった。これは夢ではなかった。二人の閨房での永年の習わしが、ひとつの幻想になったのだろう。彼は夜冷えをおぼえて、千恵のよこに身をよせていった。すると柔らかな肌の感触があったので抱きしめると、それは崩れて抵抗のないものになった。太一が妻の肉体とおもったのは、ただの布団の重なりにすぎなかった。もう朝はあけており、寝起きのにごった頭ではなく、はっきりとした空しい寂蓼の気分におそわれた。
 彼は自分のこのような幻想は、かって読んだことのある。上田秋成の『雨月物語』のなかの一篇ー浅茅が宿ーに似ているようにも思った。すでに故人になった妻に、夫として哀情の情をいだくのは当然としても、自分のような歳をして、ただの観念としても性欲の相手をもとめるのは、妻であった女とはいえ、死者だけに罪ぶかいものと観した。
 これもひとつは環境の影響もあろうかとも考え、太一はインテリアの改装をおもいたった。
 出費のこともあるので、息子に相談すると、ーパパイの好きなようにーと賛成してくれたので、寝台も独り者用にかえ、一方の壁を本棚にして、物置につんであった蔵書を部屋にはこんだ。壁が本で埋まると、それだけでも部屋の感じはまったく変わってしまった。
「あんた。とうとう自分の思うとおりにしたのね」
と千恵の声をきいたようだった。彼女の本心では、太一のような男は好きでなかったにちがいない、千恵も世のなかの娘とおなじように、結婚に夢のようなあこがれもあっただろうが、夫に女があったこと、父との折り合いがつかず、夫婦は無一文で家をでたことなど、千恵には予想もしなかった不運がのしかかってきた。太一の前歴がわかったとき、彼女はトランクひとつを提げて、家出をしようとしたこともあった。
 夫婦のきずなといっても太一らは、揺れる台のうえの素焼きの壷のようなもので、よくも落ちなかったものだと、妙な気持ちになることもある。
 たぶん千恵には夫は馬のあわない、ずいぶんと自分勝手な男だっただろう。けれども彼女は夫になんの後顧の憂いのないようにしておいて、黄泉への旅にでていった。

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