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宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(18)

 これは彼のひねくれた妄想ではないのを、不具でうまれたつぎの児が、太一夫婦の将来を暗示してくれた。その児は臍の緒がしまっていなかった。乳を吸う力もない虚弱児であった。太一もこれはとても育たないと望みをたったが。そこは親の情として、一度は医者に診せたかった。
 ところが、ーお前でも自分の子は可愛いいがーと父からやられた時は、太一の息はとまった。後日、父はー医者にゆくなーとは言わなかったと弁解したが、太一が一文も持っていないのを知っていて、診察代も渡してくれないのは、見殺しにせいというのとかわりはなかった。
 この日に太一は家出を決意した。子供の葬式がすみ、彼は友人に頼んでその友の父親の農場にはいることにした。
 太一は家をでて、おれたちはこれで日雇い人夫になったと思ったが、千恵は黙って夫についてきて、べつに不平はこぼさなかった。けれどもそれは太一の思いすごしで、まだまだ彼らより下の者もいたのである。父より買ったロンジンの金側の腕時計に、ルビーのはまった指輪それを太一は俗っぽいと嫌っていたがパトロンに買ってもらった。それで彼らの一年の生活費がでたのは、太一も驚いた。ーおれのやった品はおいてゆけーとまで、いわなかったのは父も案外ぬけたところもあったのだ。この国のおおらかさというか、家をでた若夫婦は世の辛酸をなめたといいながらも、明日の食い物にこまったことはまだ一度も知らない。
 太一は父との諍いのすえ、当時のような境遇におちるのを望んだのではないが、初めて頭のうえに青空がはれてひろがり、気分のすっきりするのを覚えて、千恵にへたな冗談さえ言えるようになった。
 その耕地に三年いた。太一は転居は好まなかったが、地主が土地を売ったので、出なければならなくなった。
 太一は自営の借地農はやれるほどの資金はもうけていた。
 その頃、借地をして儲けるには十年おそかった。大農場で借地にだすところはなかったし、往昔、名のとおった日系集団地も、土地の疲弊につれて、地主たちは浮き足だっていた。
 見知らぬ土地にでかけてゆき、適当な借地をさかすのは頭のいたいことだったが、市の農産物仲買人とか、ベンソンの主人にあたるのも、ひとつの手だと教えてくれる人もあった。太一がP鉄道のU町ちかくの煉瓦工場の荒れ牧場をかりたのも、おなじ町の仲買商の世話であった。借地人を世話すれば、商人には得意先が一人ふえるので、金銭ずくではあっても世話をするのである。
 五域の荒れ牧場はどこから手をつけてよいか、見当もつかなかったが、仲買人の世話でトラクターを二回いれてもらった。整地までの出費はおおきかった。けれども工場主が職人の長屋をかしてくれたので、助かるところもあったのである。そこで太一はいくらかは儲けたのであるが、柄のわるい環境だったので三年ででた。
 後年になって回顧してみると、そこでも千恵はドナ・チエとよばれて長屋の人気者になった。世知がらく詮索すれば、干恵は職人の女房たちから、月末の食料不足をかりるためにのせられていたともいえるのである。けれども二世でもない彼女がポ語を自由につかいこなせるようになったのは、その煉瓦工場の長屋にいたあいだに、しぜんと身につけたものである.。そして太一もブラジル人の長所と短所を観察できたのも、その長屋ぐらしからであった。
 太一夫婦とは板壁一枚をしきって、後家の婆さんがひとりで住んで、生煉瓦の型ぬきをやっていた。朝は早くからトン・トン・トンと調子をつけて働くが、午後は陽のあるうちにやめる、すると夕暮れから夜にかけて、週に二、三人の男が通ってくると千恵はいう。