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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=最終回=亜国にもいたオリメシャ

オリメシャ(ブラジルの早竹寅吉、http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/cat_50045822.html)

オリメシャ(ブラジルの早竹寅吉、http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/cat_50045822.html)

 「慶応2年のパスポート」(3月31日参照、http://homepage3.nifty.com/gekka-take/KO2-saikoKamekichi.html)には《海外渡航が解禁された慶応二年以降の幕末維新期には、隅田川浪五郎一座、松井源水一座だけでなく、薩摩一座、早竹虎吉一座、鳥潟小三吉一座など、多くの旅芸人一座が海外に飛び出していったという》とあった。慶応二年は1866年だ。
 当時の軽業師の中には欧州でだまされて《檻のような箱に入れられ、東洋から来た珍しい人種として見世物》にされた者もおり、皆が成功したわけではない。《米国で巡業をしたあと1870年暮れにオーストラリアに回ってきた薩摩一座というのがある》(3月31日参照、http://www.tokyomagic.jp/labyrinth/matsuyama/ikokunobutai-01.htm)という記述も見つけた。
 薩摩一座はおそらく米国の後、オーストラリア、さらに1872年にはチリやペルーに足を延ばしたのではないか。その後にウルグアイ、亜国に来て、そこで解散の憂き目に――。欧米では成功ができなかったから、他の一座が来ない南米まで足を伸ばしたのか。
 『アルゼンチン日本人移民史』前編20頁には、《当時、大変人気があった道化師ペペ・ポデスターに「旅役者の群の半世紀」という自叙伝があり、そこに引用されているポスター(1889年)に、日本人軽業師フランコ・オリマチという名前が見える》という記述がある。

ブラジルの竹沢万次(『O Circo no Brasil』より)

ブラジルの竹沢万次(『O Circo no Brasil』より)

 この亜国の「フランコ・オリマチ」とブラジルの「フランキ・オリメチャ」は同一人物だろう。サツマ座が解散した後に聖市に来たのが竹沢万次、ブエノス・アイレスに残ったのがフランキ・オリメシャではないか。
 ペペ・ポデスタ―(〃Pepe〃 Podesta、1858―1937)はウルグアイの役者家族に生まれ、同国や亜国ラプラタ地方の「伝説の道化師」と云われる有名人だ。その誕生日はウルグアイの「サーカスの日」に指定されている。
 欧米のサーカスとは違う、南米独特の特色を持つサーカス「シルコ・クリオロ」という傾向を最初に打ち出したのが、ペぺの時代だ。
 前出の『移民史』前編20頁には、《ところで、アルゼンチンに定着した日本人第一号の牧野金蔵が1892年、アマリア・ロドリゲスと結婚した時の証明書に証人として、36歳の日本人が署名している。その姓名は筆記体で書かれているので判読しにくく、フランコ・オリマチ、または、フランコ・オヒナチャとも読める。オリマチ=オヒナチャ=大日向、この三つの姓を並べると、限りなく接近してくるところが面白い。しかも、結婚証明書の証人として署名するからには、当然親しい友人であるはず。牧野金蔵は、ある時出会った日本人(のち、牧場を経営した鈴木芳造)に、「(昔サーカスでやって辛かった)玉乗りは二度とやりたくない」と漏らしており、金蔵がブエノス・アイレスのサーカスで働いたことがあること、フランコ・オリマチ(またはフランコ・オヒナチャ)とのつながりなどが、おぼろげに浮かびあがってくる。今となっては、すべてラ・プラタ河の夜明け前、うす霞に包まれて動く人影である》
 『日本人発祥の地コルドバ』(大城徹三著、1997年)によれば牧野金蔵は1886年にブエノス・アイレスに上陸し、《シルコ・ラ・フェットで雑役に就く》とある。亜国日本人第一号が最初に仕事にありついたのはサーカスであり、そこにいたのが亜国巡業時代のオリメチャのようだ。
 ペペのウィキペディアを見ると、パブロ・ラフェットに1877年に契約しており、ウルグアイで有名だったラフェット・サーカス(Circo Rafetto)の一員として1880年から亜国ブエノス公演を始め、各地を巡業したようだ。この辺のどこかでオリメシャと出会い、そこから牧野とも繋がりが生まれたに違いない。
   ☆   ☆ 
 玉置ヴェロニカさんを取材した折、「テレビが普及し始めた頃、皆は〃シルコ・エレトロニコ〃(電気式サーカス)と呼んだのよ。それぐらいTV以前のサーカスにはあらゆる娯楽が詰まっていた。だからラジオにしてもテレビにしても、その黎明期にはたくさんの有能な人材がサーカスから流れ込んだ。その一人がググー・オリメシャね」と語っていた。
 南米各国に文化の香りをもたらしたサーカス・コミュニティの一角に、竹沢万次もオリメシャもいた。その子孫が今も影響を残している。
 「やっぱり竹沢家の物語は大事ね。末裔をなんとか見つけて、いつか顕彰できないかしら」とヴェロニカさんは目を輝かせた。もし日本の研究者が薩摩一座の構成員の名前を調べてくれれば、竹沢万次の本名や、オリメシャがなぜ伯国で早竹虎吉と名乗っていたのか―も分かるかも。さらなる日伯の研究者に掘り起こしに期待したい。(終わり、深沢正雪記者)

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