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県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第11回=「コチア解散でコロニアがバラバラに」

大崎康夫さん

大崎康夫さん

 12日の夕食時、大崎康夫さん(77、高知県)=ピエダーデ在住=に話しかけると、「僕は葉山村(津野町)出身、下元健吉と同じ部落なんです」との言葉にググッと心を引き寄せられた。
 「川向いが下元の実家。子供のころから下元の成功譚を聞かされ、刺激を受けてきた。コチア組合の監事の川上嵩(たかし)さんが昭和25年頃に一時帰郷して、清酒を買ってきて二晩も村人を集めて大宴会をやったんです。当時は闇で焼酎を買って飲むのがせいぜいの時代でしょ。ブラジルはなんと景気がいいことかと、村中に強く印象付けました」と思い出す。
 「源平合戦で平家が逃げ込んだような山奥だから、畑と言っても段々畑ばかり。畑の横幅より壁の高さの方が長いぐらい。当然、機械も入らない。戦後、アメリカの農業紹介の映画とかみて、外国に出て広い所で自由に農業をやりたいと思っていたところだった」。
 1954年9月、中学を出たばかり15歳だった大崎さんは、親戚の呼び寄せで念願の渡伯。イビウナにあった親戚の農場で25歳まで働き、独立してピエダーデに農場をかまえた。「当時、ブラジル来るのは〃永遠の別れ〃だから、水杯ですよ。同じ部落から30軒も来てますよ。みんなイビウナ、サンミゲル、ピラールとかに入った」。
 当時、年に一回「葉山会」という集まりがあった。葉山出身者の家に順繰りに集まり、親睦会を開いた。「下元健吉さんも来て、皆で一緒に酒を飲んだ。誰とでも気さくに話す人だった。コチアが続いていたら、コロニアも違っていただろうと思うよ。コチアが解散してからコロニアもバラバラになってしまった」。
 1986~90年の頃、バイーア州バレイラスのセラード開発に入った。「開拓が終わって、あとは肥料を入れて種を植える段階になった時、組合に融資申請したら『自分の力でやれ!』との返事。当時はインフレ率1千%の時代、銀行から借りたら大変なことになる。涙を呑んで撤退せざるを得なかった。広い土地でいい勉強をさせてもらったよ。50万ドルぐらい突っ込んだかな。今は柿と栗だけ続けているよ」と豪快に笑った。
 参加者一行にこそ、玉手箱のようなコロニアの歴史が詰まっていると実感させる話だ。

竹中芳江さんと娘のロザナさん

竹中芳江さんと娘のロザナさん

 別のテーブルにいた一行の竹中芳江さん(旧姓北川、74、熊本県)にもとに移り、話を聞き始めると、なんと「グァポレ移民」だという。北伯のロンドニア州トレーゼ・デ・セッテンブロ(旧グァポレ)移住地のことだ。戦後移住が始まった翌年1954年に12歳で家族と入植した。
 何気なく「なぜ移住を決断したんですか?」と問うと、「両親は韓国からの引揚者なんです。父は何人も使用人がいるような金持ちの家庭に育ち、サント(聖人)のような人だった。ただし、かけ事が好きで、競馬、競輪に目がなかった。私たち兄弟6人をほったらかしにして、週に1回しか風呂に入れてくれないような生活。母(北川房江)は『こんなだったら私は出て行く』って。ブラジル移住は母が言い出して決めたの。母は父のかけ事癖を辞めさせるためにアマゾン移住したんじゃないかしら。だってアマゾンにはないでしょ、かけ事するようなところが。移住が決まった時、母は布団の上をキチガイのように飛んで喜んでいた」という驚くような話を始めた。(つづく、深沢正雪記者)

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