ホーム | 文芸 | 連載小説 | 回想=渡満、終戦、そして引き揚げ=浜田米伊 | 回想=渡満、終戦、そして引き揚げ=浜田米伊=(1)

回想=渡満、終戦、そして引き揚げ=浜田米伊=(1)

 生きのびて

 私達は南国土佐(高知県)出身の者で、父母は土佐和紙典具帖紙の工場で働いていました。父は4人兄弟で、上2人姉がいて次に兄(叔父)、それから父は末っ子でした。
 父は始めから叔父さんの家族(叔父さんは8人の子供)と同居しており(私達は6人姉兄妹)、父の母親(おばあさん)も達者で、合わせて19人という大家族でした。村長さんが「こんなに大勢の家族でありながら、こんなに円満に行く家庭は滅多にない」と言ったということを、年上のいとこから聞いたということでした。
 渡満する時、私の家族は一番上の姉は既婚者で、もちろん日本に残り、父母と兄2人と私、下の妹2人がいました。上兄は鉄道員であり、次兄は電車の車掌でした。父は満州開拓団の話を隣村の人から聞き、渡満を決心したようでした(正岡さんと言うお方でした)。
 私家(しか)は昭和15年11月22日(旧姓竹田、米伊当時11歳)に故郷日本を出発し、3日後に目的地である満州国興安東省阿栄旗那吉屯高北開拓団へ着きました。何と言っても零下30度というからひどい寒さです。しばらくして各自に防寒服、防寒帽子、防寒手袋、防寒靴等の配給がありました。
 家の中もペーチカやオンドルもあり、外の寒さは余り感じないようになっております。ペーチカというものは、それは大きくて、セメントで造ったもので、手前はカマドになっており、大きな煙突があって、それを炊けば室内は暖まります。
 オンドルは床、座敷に有って、夕方は早くから時間をかけて手前にある炊き口(くど)から火を燃やし床を温めます。床は土とワラ(スサ)を短かく切ったものを水で練って、それを床に厚く塗ってあり、室内の隅々まで温まるようにしておくと、朝まで保温できます。床にはアンペラというものを敷いてあります。
 外がいくら寒くても、子供達(私達)は外で元気に遊びます。学校でも冬の間もほとんど、中で勉強するより外の方が多いくらいでした。
 作物も冬の間は休作するので、夏作に良く出来るのは当たり前のことでした。どの家もみな主作は大豆・粟・とうもろこし・豆類で、水稲は試作をしてみましたが、水田に蒔いたモミを鴨が大勢来て食べてしまって全然ダメ。2回やってみましたがダメでした。
 北海道から一家族来ており、満州は宝庫の諸島と言われていて、みんな穏やかでした。ですが、高北開拓団も戦争が終わり、いや敗戦とともに匪賊の襲撃となり、世相も一変してきました。
 話は後戻りになりますが、私達は渡満すると、すぐに在満国民学校に入りました。生徒はわずか4人。その内3人は姉弟で、他に1人男の子がいただけです。私たちと他にも何家族か渡満したので、生徒は合計11人になりました。先生は男性で、徳島県出身の方でした。
 翌年4月には大勢の家族が入団して来まして、生徒は54人に増えました。そこへ、富山県出身お義勇軍出の先生が派遣されて来られました。それからしばらくして、当団に在住しておられた女性の先生も入職され、54人の生徒を3人の先生で教えて下さいました。富山県出身の先生はさすがは北陸の方で、大変スケートが上手でした。南国の私たちには珍しく、感心して見たものでした。
 話はまた後へ戻ります。夏作の時期には、いくら暑くても日に一度は大体決まった時間にスコール(一時のにわか雨)が降るので、雨不足の心配は全然要りませんでした。冬は大きな河が凍っていて、その上を馬車で伐採に行ったり、団に一台しかないトラック(カミニョン)が走ったりしていました。

image_print

こちらの記事もどうぞ