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どこから来たの=大門千夏=(81)

 催事場の隅に寿司屋があって、ここをぼんやりと見ていると、「海鮮どんぶりがお勧めでーす」と若い店員が声はりあげて言う。宮城から来たんだから魚は美味しいに違いない。
――年を取ったら栄養を取らないとボケるんだって。わが人生いよいよ先がみじかくなったから、おいしいもの食べといたほうが良いじゃあないの――なぜか弁解が頭をよぎる。
 二〇人くらい座れる止まり木式の丸い椅子があるだけの簡易レストランで、ここに中年の女が一人、椅子に座ってぼんやりと宙を見ていた。私はすぐ近くにすわった。
 女は良く太って、ウエストのないだぶだぶのワンピースを着、椅子からたっぷりしたお尻がはみ出している。顔色がやけに悪い。足にはスリッパをはいているから、よっぽど近くに住んでいる人に違いない。
 女のもとに一皿「ウニのにぎり」が運ばれてきた。彼女はありがとうと大きな声で言い、箸を両手で持って頭を少し下げて、いただきますと丁寧に声を出して言った。
 それからポッチャリした指でにぎりをつまみ、口に入れると、「おいしいー、おいしーいい」と腹の底から唸るように大きな声で、これ海の匂いがするわーと声高く言った。
 私も思わずウニのにぎりを注文した。
 「もう何年も海に行ったことがないの。このウニは潮の香りがする。懐かしい香り」誰にともなく言ってから、初めて私のほうを向いた。暗い顔、張りのない皮膚。
 「あー来てよかった。食べに来てやっぱりよかった」と女のしみじみとした声。
 「また来てください。日曜日までここでやっていますから」小柄な店主は愛想よく答える。
 「うーん、来れるかなあ、私ね、今日は病院を抜け出してきたの」
 「抜け出すって?」
 「入院してるのよ」
 「えっ入院中ですか」
 「そう」彼女は人ごとのように言った。
 「―――」店主のおじさんは黙ったままだった。そうなのか、あの太り具合は薬の副作用だ。
 私のウニのにぎりが来た。口に入れると途端に、本当! んーん懐かしい! ――思わずつぶやいた。長いこと忘れていたあの潮の香りが今、口から鼻に広がり、突然眠っていた記憶がよみがえってきた。
 幼い日に家族と行った海水浴の光景、その時の海の匂い、海の色まで一度に思い出された。海辺を一緒に歩いた祖母の柔らかい大きな掌の感触、浜辺に押し寄せる波の音まで聞こえてくる。
 ぼんやり追憶にふけっていると、二人の前に海鮮どんぶりが運ばれてきた。ピンクがかった赤いマグロがたっぷり乗っている。中トロだ。さすが宮城から来たレストラン。味にすっかり満足した私は、「こんなにおいしいマグロがいつもあるの?」
 「五〇年マグロ一筋にやってきていますから、マグロの顔を見ただけでどのくらい美味しいかわかります」年老いた店主は自信たっぷりに答えた。引き締まった容貌が実直さを表していた。
 「今度はお店に食べに行くわ、名刺ちょうだい」そこには仙台市の住所が書いてあった。
 「来てください。お待ちしています。前の日に電話ください。お待ちしていますよ」とおじさんは何度も言った。
 「来年行きたいわねー」女はうっとりと答えた。
 「あら、大丈夫ですよ、きっと行けますよ」思わず私は声に出していった。他にお客がいなくて二人だけだったから気安い気分だった。

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