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赤レンガとイエロー・カフェ

グルメクラブ

6月24日(金)

 過日の夕暮れ時、チラデンテス通りに架かる歩道橋の上から、赤レンガ造りの建築を眺めた。ルス駅と州立絵画館(ピナコテカ)である。夕日が映える壁に甘い感傷があった。
 そのレンガが赤い理由は、焼き上げる際に空気中の酸素と土の鉄分が結びつき生じる酸化鉄のせいである。赤レンガ建築の本場はイギリスとオランダだ。
 というのも、国土が狭く石材を安定的に得られない事情が背景にある。豊富であれば、イタリアやフランスのように外観は石材で仕上げるところだが、両国ではレンガの質感と色を「装飾」としても生かす工夫を強いられた。
 イギリスでは、一六六六年のロンドン大火がレンガ普及を後押しした。ときの王が「すべての建物はレンガか石造りとする」法を制定し、飛躍的に需要が伸びた。その潮流はやがて文明開化の日本にまで押し寄せた。横浜港や東京駅といった「別れの舞台」も赤レンガで染められ、私たちはいつしか夕暮れ時のそれを見ると通俗的な感傷を覚えるようになった。
 落日といえば、ルス駅開業は一九〇一年、「日の沈まない国」と呼ばれたイギリス・ヴィクトリア朝の最後の年にあたる。イギリス人建築家チャールズ・ヘンリー・ドライバーが設計し、建材を本国から輸入する凝りようだったが、完成の二カ月前にヴィクトリア女王は亡くなっている。
 その頃、ロンドンでは夏目漱石がチェイス通りを不機嫌そうな顔で歩いていた。一九〇〇年から「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」。不快がつのって、ノイローゼにかかった。一九〇二年には日英同盟が結ばれた。
 十九世紀後半から二十世紀前半にかけて、サンパウロのインフラ整備はイギリス資本によって拡充された。代表例は、サントス―ジュンジャイ間を結ぶ鉄道を敷いたサンパウロ・レイルウェイ・カンパニーである。サントスを望む海岸山脈に位置するパラナピアカーバ駅付近には、当時イギリス人技師が住んだヴィクトリア朝風の家屋集落が昔ながらの姿のまま残る。近年観光化に力を入れ、一部家屋はレストランや「ティーハウス」に変貌している。霧深い季節もある。そんなときには駅の時計台がロンドンのビッグベンを思い起こさせる。
 二十世紀最大の、あるいは「人間と自然の調和を目指した」という惹句で語られることが多いイギリス人彫刻家ヘンリー・ムーアの展覧会が四月十二日からの二カ月間、ルス駅となりのピナコテカであった。鑑賞後、駅から五十メートルばかり離れたイギリス人村(ヴィラ・ドス・イングレーゼス)に行った。サンパウロ・レイルウェイ・カンパニーの従業員に貸し出されていた住宅の集まりだ。文化財として外観は保存されているものの、内部空間は、オフィス事務所やアトリエなど商業目的に応じてさまざまである。
 カフェも営業している。店名を「イエロー」という。ヴィラの壁の色が、やや黄色がかったうすいベージュで統一されていることに由来するのか。「明るくきよらかなこの色は、しらじらと空けてゆく夜明けの空を思わせる」とは色彩事典からの引用だ。サンパウロ再活性化計画でこのところ、ルス駅を含む多数の古典建築が相次いで、ヴィラと同系統の色に塗り替えられているのはどうしてか。 同じ色のペンキを大量に買えば安く済む。計理士の視点からその理由を考えていたが、夜明け=再生の意味合いが無意識に込められているのか。あるいは、ただ、建設当時の本来の色を取り戻しただけのことか。
 イギリスはピクニックが盛んである。駅と美術館が視界に入るルス公園なら最適の場所だと思い立ち、それを楽しもうとしたことがあった。ハム、ソーセージなどのコールドミート、サンドイッチ、ビスケット、デザート、紅茶をバスケットに詰め込んでイングリッシュスタイルのピクニックを気取ってみたが、「芝生に入らないでね」と、警備員に怒られ急いで退散したほろ苦い記憶がある。
 多彩なサンドイッチを中心に、酒のつまみから肉魚料理も充実している「イエロー」がピクニック料理セットを売り出し、公園がもっと美化され芝生で飲食可能になったら、と考えた。イギリス式は先に述べた。チーズ、パン、ハム、クレープ、ワインでフランス式、フライドチキン、ハンバーガー、フライドポテト、コーラとビールでアメリカ式、寿司、そして煮物、おひたし、乾き物、酒で日本式……サンパウロ市にゆかりのある国の数だけセットをそろえたら見事なものになるだろう。
 といって、「イエロー」で過ごす時間だって悪くない。オーナーの好きな画家グスタフ・クリムトの作品が拡大プリントされ、壁に貼られている。クリムトは金箔を多用した絢爛で官能的な作風で知られるが、活躍の場はウイーンだから、イギリスとは縁が薄い。オーナーはいう。
 「彼は一九一八年に死去し、ヴィラはその前年の一九一七年に建てられた。同時代の文化芸術の匂いを何か反映させてくてね」
 一九一七年。その前年に絶命した漱石の遺作『明暗』が刊行され、ムーアと並ぶ「二十世紀最大の彫刻家」仏人オーギュスト・ロダンが逝き、第一次世界大戦とロシア革命が勃発、サンパウロ市では工場労働者による一斉ストが長引いた年でもあった。
      ◎
 ヴィラ・ドス・イングレーゼスの住所はマウア街836。電話11・3326・1049(イエロー・カフェ)。

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