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ある語り部の死と新生農場=下=61年、弓場から派生=遠い昔日思い生きる日々

2月18日(土)

 角笛の低い音が響き渡る。午前九時半。もう〃アルモッサ(昼食)〃の時刻だ。農場の一日はサイクルがずいぶん早い。
 食事は共同食堂でセルフサービス。セルフサービスでカボチャの煮付け、フェイジョン、キャベツの炒め物などが用意されていた。菜食中心は徹底している。いっせいに祈りを捧げてから、箸を取る。
 「去年は葬式を三つも出したのよ」
 多いときには百人ほどが農場で暮らした。それが現在はちょうど三十人に。最高齢は今年百八歳を迎える上月こしづさんだ。耳が少し不自由も、足腰はしっかりしている。
 「息子さんの方が腰が曲がって弱っているわ」、「最後は彼女だけが農場に残っちゃうんじゃないか」。そんな冗談が飛び交い、会話が途切れる。その余韻をかむ間に、ここ数日の雨に匂う風がゆったりと通り過ぎた。
 「新生」は「弓場」から派生した農場とみてもいい。 
 一九五六年、弓場農場は経営破綻。より所を失った共同体は、後のグァラサイ市長ジョゼ・マルケスが所有する大農園の傘下に納まることを強いられた。 
 しかし―。リーダーの弓場勇は「ガイジンの世話になってたまるか」とこれに反発。
 「もう一度、俺について来い」 
 復活に闘志を燃やす弓場は同志一人一人の目を熱く見、賛同を求めたという。
 「新生」の牧師、森忍さん(七四)は「午後三時ごろ、農園の食堂にみんな集まった。われわれの間では伝説とされる劇的な演説です」と話す。
 結果は別の道を選んだものが半数に及んだ。
 ゼロからの出発を決意した『離別派』はこのときから再度農場を購入する夢を描き、マルケスの下でカフェ栽培や養鶏に励む。そうして五年。ついに「新生」として独立を果たす。生活の基本はともに祈り、ともに働き暮らす。スタイルは「弓場」を踏襲した。
 往時は三十アルケールの耕地に米や葡萄を植え、養鶏も盛んだった。が、いまでは遠い昔日のこと。毎年の節目行事のだった入植祭も三十年祭を最後に挙行していない、と聞いた。
 「みんな日本やほかの街に行ってしまってね。このごろは仕事といっても・・・すっかりここも養老院になっちゃって」
 森さんの自宅で、あるビデオを見せてもらった。一九八八年に農場内の劇場で開かれた、クリスマス演芸会の模様を映したものだ。
 「当時は学校に通う子供だけで二十数人。全体でも八十人はいた」
 いま目前のブラウン管の中で、跳びはねている子供たちはどこへ。「高校を卒業すると、引き潮のようにみんな農場を去っていった」と森さん。しばらく、じっと黙って画面を見ていた。 
 夏草の茂みを分け入り、劇場に出向いた。かつて、ここでは十一月までここで蚕(かいこ)が飼育され、十二月になると、舞台のセットや、客席が整えられたそうだ。
 ステージは―といえば。聖夜の夢を灯したそこは既に朽ちつつある。この捨てられた風景を、街で暮らす出身者はどんな思いで眺めることか。ほこりをかぶりながらも、いつもだれかを待っているかのようにある、このステージを。
 「また使うときがあるかもしれないから」。森さんはポツリと。撤去するつもりは当分ない。「使うことはもうないと分かっていても。しばらくはこのままにしておきたいんです」。 (終わり、小林大祐記者)

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