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200年前〝初到伯〟=『環海異聞』の4人=ロシア軍艦に乗せられ=鎖国時代、極めて奇異な体験

11月13日(木)

 なぜか、一八〇三年の日本人ブラジル到来は、今まであまり重要視されてこなかった。若宮丸の四人は、日本人としては初めて世界一周し、南米大陸に最初に上陸しただけでなく、一生のうちに北極圏と南極圏を極めたたぐい稀な体験者たちだった。交通機関の発達した現在でさえ、一般的なことではない。彼らから話を聞いた当代一流の蘭学者・大槻玄沢をして「未曾有のこと」と言わしめたゆえんだ。鎖国時代の当時としてはあまりに奇異な経験ゆえ、帰国後は多くこの事実を語らなかった。これを機に、その『環海異聞』(かんかいいぶん・大槻玄沢)の概要を改めて調べてみた。

 ブラジルの土を初めて踏んだ日本人は、陸奥国石巻を寛政五年(一七九三年)十一月に出港した帆船「若宮丸」の乗組員十六人のうちの四人だった。
 御用材木四百本と御用米二千三百余俵を積んで江戸港へ向かう途中に暴風に襲われ、北方へ漂流した。ブラジルではチラデンテスが絞首台に上げられた翌年だった。暴風に襲われ、北方へ七カ月の漂流の末、ロシア領オンデレッケ島に漂着し、住民に救助された。糧米のみ残し、積荷は海へ捨てていた。
 大陸のイルクーツクに移って八年間滞在。この地に通称ニコライ伊勢新蔵が住んでおり、何かと便宜を与えた。すでに日本人の墓が二、三あったそう。
 王命により、モスクワを経てペテルブルグへ、イヌぞりや馬ぞりで送られた。ちょんマゲ姿の十余人はロシア首府で、ほとんど国賓の待遇を受け、王の家族のみの極めて親しく打ち解けた謁見によくした。
 「故国に帰りたいか」との皇帝の問いに、「残りたい」と答えたのが六人、「帰してもらいたい」と答えたのが四人だった。首府に留まること四十余日、四人は、折から準備中だった世界周航計画の軍艦ナデシュダ号とネヴァ号への乗船を許された。この船団は、ナデシュダ号の艦長クルーゼンシュテルンの航海記により、後に全世界に知られるものとなった。
 一八〇三年六月十六日、クロンスタット港を出発し、カナリア諸島より赤道を越え、西南航するも嵐に遭い、破損箇所を修理するために十二月二十日にブラジルのサンタカタリーナ州デステーロ(現在のフロリアノーポリス)に入港。鈴木南樹によれば、デステーロの全名はNossa Senhora de Desterroで、フロリアノーポリスになったのは一八九四年のことだという。
 『環海異聞』には「湊は大なれど入海にて浅く、大船は岸によれず、英船二隻、異国船二隻碇泊中、此地の舟は細長く笹の葉のごとし(カノア?)。此地極熱、冬季なし。土人膚色漆黒、女は背に風呂敷模様つきたる如き物をかけ、腰より下は木綿、又は麻の織物にて袴の裾廣なるを着る。男女とも入墨せず、男女とも歯黒し。不断松脂如きものを噛む(噛煙草?)。此湊より奥へ一千軒計りの家(サン・ジュゼ町)のあり、教会もあり、米を産す。土人の常食はトウキビであった。奥の方に頂上を極め得ぬ程の高山あり」とある。
 「大西洋で帆柱破損せし故、木材を買入れ修繕す。材木はカラスナ、セリリトと云い、赤き堅き木なり。野菜、白砂糖、コツク(椰子果)も多く買入れた。動物には尾長猿、河豚(カピバラ)、鰐(クロコジル)あり」。彼らは、暑さのあまり喉の乾きを訴え、椰子の実を多数買い求め、飲み終わった殻を日本へ土産に持ち帰ったとされている。
 「長めに房なしたるもの相集まりて一叢をなし、一体緑色、一房に三筋の角立、長さ二寸ばかりあり、初は緑、熟すれば肉黄色となる」とあり、バナナと思われる。「甘きこと通草のごとく仁子なし」と形容。南樹は「多分このバナナはマッサンではなく、オーロ種であろう」としている。
(つづく、深沢正雪記者)

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