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〃この世の地獄〃を体験=被爆の住職、桜井さん生々しく語る=広島県人会で講演会=恒久平和を願う

6月16日(水)

 「ピカッ!閃光が走って、視界が開けたときは、この世の地獄だった」。原爆の恐ろしさを知ってもらおうと、講演会が十三日、広島文化センターであり、正向寺(広島県佐伯郡)の住職、桜井賢三さん(73)が百十五人の聴衆を前に、生々しい被爆体験を語った。在ブラジル原爆被爆者協会(森田隆会長)、広島県人会(大西博巳会長)、長崎県人会(丹生登会長)、南米友の会(奥卓恕会長)の共催。澤井充子さん(広島県出身、61)も健康に不安を抱えながら生活してきたことなどを明かし、恒久平和を願った。
 二人はいずれも、西本願寺の南米教団布教の旅に参加。来伯を機会に、講演会が企画された。 
 一九四五年八月六日午前八時十五分。桜井さんは広島市内の「建物疎開」に同級生らと従事。屋根の上で作業を進めていた。B29爆撃機が上空に見えたと、思った瞬間、閃光が走った。「ピカッ」─。その後、「二十~三十秒間、一寸先さえ見えなかった」。
 視界が戻ったときには、屋根で働いていた二十人のうち、本人を含めて三人しかいなかった。残り十七人は爆風に飛ばされて、地面に落下。「体が燃えていた」。自身、全身やけどを負い、焼け野原の中、通学していた崇徳中学まで逃げた。
 「目が飛び出している女性や全身焼け爛れた人が助けを求めていて、この世の地獄だった」。多くの市民が水を欲しがって、太田川に飛び込み、「死体の海」になっていた。
 桜井さんは一旦、広島市郊外の学校に避難。父親が訪ねてきてくれた。しかし、やけどの治療のため、市内に戻った。全身の三分の一以上にやけどを負い、死を宣告された。
 実家で臨終を迎えたいと希望。十五キロの距離をリヤカーで運んでもらった。膿が毛布に付着。看護婦がはがすのに半日もかかった。献身的な治療で、命は取り留めることができた。
 澤井さんは二歳のとき、爆心地から三キロの地点で被爆。一家は三原市(広島市から東に六十キロ)に移った。虚弱体質で、すぐに風邪をひいた。大学時代にスポーツ系のクラブに所属したが、練習になかなかついていけず、悩んだという。
 「アメリカは何故、原爆を投下しなければならなかったのか」。小学校教員になった澤井さんは、平和学習には力を注いできた。「戦後五十九年経っています。一週間前に、被爆した遺骨が見つかりました」と語り、戦争体験はまだ過去のものにはなっていないと訴えた。
 この日、原爆被爆者の追悼法要も営まれ、出席者は冥福を祈った。
 

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