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移民のふるさと巡り=赤道の4都市へ(5)=スコールの中、先亡者慰霊法要=竹中さん〃姉〃81歳と50年ぶり再会

10月7日(木)

 汎アマゾニア日伯協会を一時間余りで辞し、一路、先亡者法要が行われるアマゾニア日伯援護協会(大楯俊治会長)の厚生ホームへ向かい始めると、本格的な驟雨(スコール)になった。先駆者らの涙雨か――と、天を仰ぐ。
 夕暮れ時、腹の奥に響くような雷が鳴り響く。厚生ホーム内の屋根付きゲートボール場付近に作られた特設会場に、単調な読経がこだまする。本来は、すぐ横の立派な慰霊碑前に祭壇が組まれていたが、雨のため、急きょこの場所となった。
 アマゾニア日伯援護協会の黒沢昭良副会長の「遠くからよくおいで下さいました」という歓迎の言葉の後、法要は始まり、トメアスー西本願寺代表の坂口陞(のぼる)法務使と山田元・報謝講頭らが正信偈(しょうじんげ)を草譜で行っていた。
 ふるさと巡り参加者九十一人はおのおの、この地の先駆者の苦労に想いを巡らせながら、ゆっくりと焼香していった。ホーム入居者の一世らも法要に参加してくれ、一緒に祭壇に手を合わせた。
 徐々に小降りになると、アマゾンの甲高い鳥たちの、生命力溢れる鳴き声が辺りに満ち満ちてきた。
 「私はトメアスーで四十七年間、農業をさせてもらっています」と、坂口法務使は法話を始めた。「いっこうにお金は貯まりませんが、幸せな気持ちで毎日送らせてもらっている」。
 「ある時、自分が作ろうとしたものが畑に何も残ってないで、自分が植えてないものが畑に残っているのを見て、俺は何をしてきたんだろう?と思った。その時、理念法理という法話を頂き、目からウロコが落ちた」
 燎原の火のごとく広がった恐ろしいピメンタの病害を乗り越え、もともと地元にある樹木と作物を混植して持続的な収穫をもたらす森林農業をするに至った心境を、そう語る。
 「我々は自然の力に生かされている。自然は本来、自然(じねん=自ずから、なさしめる)ということ。なるべくして、ならされているのは人間の方。我々は生かされているのです」
 ふるさと巡りの南雲団長は「このような立派な法要をして頂いたことを深く感謝します」と礼をのべた。訪問先での先亡者慰霊法要こそが、ふるさと巡りの最も重要な意味であると、参加者の心に沁みたようだった。
 一行は厚生ホームの中を案内してもらい、NHK国際放送を見ながら夕食を食べる入居者らを横目に、充実した設備に感嘆の声を挙げた。同ホームの敷地は五町歩もあり、入居者は十八人で、全員一世だ。
 この法要が行われている会場の奥で、実は感動の対面が行われていた。
  ◎   ◎
 「分かりますか?」
 竹中清さん(69)=聖市サンターナ区在住=は、同ホームに入居している竹中ミサさん(81)に声をかけた。先亡者への読経が続く、法要の最中だった。
 最初、何のことやら分からなかったミサさんだが、すぐにその顔をじっと見て理解した。ミサさんの家族が一九五五年一月にサンタレンへ移住した時、清さんは構成家族(書類上の弟)としてその一員に加わっていた。一年余り一緒に働いたが、清さんはサンパウロへ引越し、以来、五十年近く一度も会っていなかった。
 今年、夫を亡くしたばかりのミサさんは、思わぬ〃弟〃との再会に「今までの人生で一番嬉しい」と涙を流した。清さんの妻、芳江さん(63)はミサさんとはまったく面識はなかったが、その光景を見て、思わずもらい泣きした。清さんは厚生ホームにミサさんがいることは知っていたが、敢えて黙っていた。
 清さんが竹中姓を継いでいることを確認し、ミサさんは安心した。五十年分の積もる話を二人は一心にした。県連ふるさと巡り一行が厚生ホームを離れる時、ミサさんは部屋の窓を叩いて、別れを哀しんだ。
    (深沢正雪記者)

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