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第1回海外日系文芸祭=上位入賞者の感想をきく

10月23日(土)

 第一回海外日系文芸祭で大賞を受賞した植松秀子さん(短歌、米国、カリフォルニア州)、海外日系新聞放送協会賞の瀬尾天村さん(短歌、ブラジル、マリリア市)、斎藤光之ジュリオさん(俳句、ブラジル、フランコ・ダ・ロッシャ市)に受賞決定後の喜びの声をきいた。植松さんは、明治の人・亡き姑を詠んだ。供養のつもりだという。瀬尾さんは、初めて自分の土地を得たときの満足感を歌にした。また、斎藤さんは、聴力を失っているが、あるがままを受け入れて来た、と語る。

 受賞作――そのかみの移民の亡姑の牡丹刷毛かすかなれども紅の匂いす――は、羅府新報に掲載された文芸祭への応募呼びけを見てから作った。「軽い気持ちで、すぐにできた」。だからか、主催者側から電話で大賞受賞の連絡を受けた時、「信じられなかった」。
 作品に詠まれている「亡姑(はは)」は、夫サムさんの母親くにさんのことだ。
 くにさんは明治の女性らしい気立ての持ち主で、「決して化粧を怠らなかった」。秀子さんが短歌を始めるようになったのも、くにさんが「北米短歌会」に所属していたのがきっかけで、七一年、「同じ結社に入るよりは」と秀子さんは「ロッキー短歌会」に入会。主に添削を通して、主宰の服部尚之さんから指導を受けた。それまで歌を作ったことはまったくなかったが、本を読むのは好きで、石川啄木や与謝野晶子はよく読んでいたという。
 その後ロッキー短歌会のメンバー大半が日本の「潮音」に入ったが、「難しくてついていけなかった」ために辞め、さらに病気(悪性リンパ腫)をしたこともあって、ロッキー短歌会からも退会。昔作った歌は捨ててしまい、それから十七年近く、歌作りはほとんど止めてしまった。「病気のせいだと思う」。二度とペンを手にしたくないという気持ちだった。
 六年ほど前、服部さんの勧めで「パイオニア短歌会」に加わったが、これもあまり長くは続かず、三年ほどで辞めてしまった。
 こうした曲折の間も、ずっと気に掛けていたのが、義母くにさんのことだった。くにさんは十五年ほど前、転んで腰骨を折り、そのまま病院で死去。「嫁として、家で世話してあげることができなかった」。そんな思いだった。それが、歌を通じて深い喜びに変わった。
 「受賞作は義母への供養のつもりです。受賞を喜んでくれていると思います」
 歌詠みの苦しみと喜びを味わいながら、これからもぽつぽつと歌を作り続けていきたい―それが今の植松さんの心境である。
 横浜で三十一日に開かれる文芸祭授賞式に参加する。二年ぶりの訪日。父母や姉妹の墓参りも考えている。

(略歴)一九二八年、三重県津市生まれ。五八年、米兵と結婚し渡米。六八年、現在の夫サム道郎さんと再婚した。ロッキー短歌時代に、靖国神社の短歌コンテストで二回佳作。九九年、日米短歌大会で奨励賞受賞。ロサンゼルス近郊コロナ居住。(ロサンゼルス,、羅府新報、長島幸和記者、写真も)

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