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盛和塾ブラジル=カジャマンガの樹の下で=バナナ王 山田農場を視察(1)=情熱とひらめきで頂点に

11月18日(木)

 今年九月に京都で開催された第十二回盛和塾全国大会で体験発表、みごと最優秀賞を獲得し、三千五百余人の経営者の頂点に立った山田勇次さん(57、北海道出身)。日本全国の中小零細企業の経営者が切磋琢磨する経営道場の最高峰に、ブラジル戦後移民が輝いた。国内向けバナナ生産で一位を誇る、バイーア州にほど近いミナス州ジャナウーバ市にある山田農場を一目見ようと、盛和塾ブラジル(代表世話人=板垣勝秀)主催の視察旅行が十一日から十五日まで行われ、米国ニューヨークからも六人の塾生が駆けつけた。

――その時、カジャマンガの樹の下に車座になった四十人の塾生は、不思議なエネルギーと熱気に包まれていた。
 「想いは必ず実現する。自分の気持ちが十分に高まっていなければ、言霊は伝わらない。情熱を持って心を高めると、自然と閃きがある。何かの前を通りかかっただけで、アッと気づく。その状態をいかに持続させるかが重要です」
 視察最終日の十四日、山田さんは自らの農場で仲間を前に、まるで稲盛和夫塾長(京セラ、KDDI創業者)が乗り移ったかのように、柔和な表情の奥に秘めた情熱を淡々と言葉に込めた。
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 一向は十一日晩九時にサンパウロ市をバスで出発し、十八時間かけて千二百キロを北上、翌十二日午後四時半にようやく、同市のブラスニッカ・フルッタス・トロピカイス社事務所に到着した。
 最初に通された簡素な社長室には、バナナの油彩画と共に、全国大会の表彰状や塾長直筆の色紙が誇らしげに飾られていた。日本で生まれた稲盛哲学は、飛行機でサンパウロ市まで二十四時間、そこからバスで十八時間という、地球上で最も遠い場所にその根を張った。
 現事務所の裏手にある、最初に事業を始めた旧事務所と冷蔵倉庫前に一同は集まり、従業員約三十人の歓迎を受けた。社員を代表して長男ジュンさんの妻、アンデリーニさんは「貴重な時間を費やして、遠くまで来ていただき感謝します。社長が日本で貰った賞は、会社全体、私たちにとっても重要なもの」とあいさつした。
 その時の様子を、米国ニュージャージー州で自動車修理業を営む盛和塾USAの菅原義夫さん(宮城県)は、「従業員の顔を見て、これが成功なんだと思った。山田さんは働いている人から本当に尊敬されている。凄いものを見ちゃった、と思った。これだけで十分、見に来た甲斐があった」と語った。二十四歳で渡米し、現在同い年の経営者として、深く感じ入るものがあったそう。
 山田さんは十カ所の農場を持ち、バナナ園だけで八百五十ヘクタールになる。年産二万七千トン、売上げは約十五億円、従業員は約八百六十人を数える。総面積は一万二千ヘクタールで、牛三千頭のいる牧場他、各種熱帯フルーツの生産試験も行っている。
 サンパウロ市のセアザ、オザスコ、リオ、ベロ・オリゾンテ、ブラジリアなど七カ所に直販卸店を構え、自社産品だけでなく、近隣から持ち込まれた果実なども買い取って販売もする。そのため、市場の反応が素早く伝わり、それを経営に反映できる。
 山田さんは一九四七年、十三歳で家族と共にレジストロに入植。二十歳の時、独立し、リベイラ川沿いでバナナ栽培したが、価格の乱高下や「凄い水害に襲われ、泳いでバナナを収穫しなければならないこともあった。こんなのはもう嫌だ」と思い、三十半ばで次なる新天地を探した。
 「どうしてここへ来たかとよく問われる。第六感というか、何かに導かれた感じがする」と意味深な答えを返した。  つづく
    (深沢正雪記者)

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