ホーム | 日系社会ニュース | 憲兵司令部勤務でC級戦犯だった父 国民にお詫び=被爆者の山村さんイビウーナ在住=「行政にすがれない」=体験隠し今なお手当て受けず

憲兵司令部勤務でC級戦犯だった父 国民にお詫び=被爆者の山村さんイビウーナ在住=「行政にすがれない」=体験隠し今なお手当て受けず

2月8日(火)

 「国民の皆様に、申し訳ないことをした」。C級戦犯として処罰を受けた父の一言が、戦後の身の処し方を決めた。「行政にはすがれない」。だから、被爆者手帳を取得して、健康手当てを受けるつもりはない。真夏の空に閃光が走り、一瞬のうちに町が廃虚になってから、今年で六十年になる。戦争・被爆体験を隠して、孤高に生きてきた。山村崇雄さん(広島県出身、66)=イビウーナ=が重い口を開いた。

 「ガラガラガラ」。強烈な爆音が響いて、気絶。意識が戻った時、目の前に広がっていたのは地獄の行列だった。
 爆心地から五キロの自宅は全壊。近くの県道を全身焼け爛れた市民が、水を求めて西へ西へと逃げていた。泣き叫ぶ女性や子供、そして力尽きて路上に倒れる人々…。いったい、何が起こったのか。真っ青になった。
 間もなく、従妹が帰ってきた。衣服が焦げて皮膚にくっつき、その皮膚も爛れ落ちていた。応急処置として、母シズエさんが全身に井戸水をかけた。治療の施しようもなく、一週間後に死去。市の中心部にいた姉も、消息が分からないまま帰らぬ人になった。
 翌七日から、大人に混じって死体処理の作業を手伝った。「何体もの遺体を、小高い丘の上に運んで焼いた。ショックでトイレに一人でいくのが怖かった」。興奮のため、山村さんの声が上ずり、身振りにも力がこもる。
 移住(六一年)後、しばらくはシュラスコの匂いが鼻につき、食べることが出来なかった。
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 憲兵大佐で憲兵司令部外事課長だった、父義雄さん。一九三〇年代に中国大陸で情報機関の任務に就いていた。上海事変やノモンハン事件で危ない綱を渡り、降伏調印式に先立って行われた日米交渉で祖国の権益確保に命を張った。
 終戦の年は東京勤務だったので、被爆は免れた。大阪捕虜収容所での虐待・虐殺事件(大阪憲兵隊事件)に関わったと容疑がかかる。出廷前に、会う人々に頭を下げて言った。「ごめんなさい」。家族皆の顔が、強張った。
 国のために戦ったはずの父。しかし皮肉にもC級戦犯として刑に服し、世間から「戦争加担者」とレッテルを貼られた。一家は国による被爆者救済を拒否。援護法が発効しても、恩典に浴すつもりはさらさら無かった。
 「亡くなった姉に対する一時金だけ、受け取った。父の苦衷を察すると、税金をもらうことは出来ないと考えた」。頑なな態度は、被爆六十年経った今も変わらない。
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 シズエさんは満州での生活を思い出しては、中国人の人柄の良さなどを子供たちに話して聞かせた。アメリカやブラジルに親戚が住んでおり、山村さんは、少年時代から海外移住の夢を膨らませた。東京農業大学に進学。四年生の時に渡伯、念願を果たした。
 ゼロから出発。花卉栽培農家として、イビウーナ市で地盤を固めた。仕事に打ち込むことは、戦争・被爆体験から逃避出来る唯一の手段だったのかもしれない。
 「若い頃には、二、三日寝ないで働いても平気だった」と、体力には自信があったほうだ。五十五歳を過ぎたあたりから、どうも体調がおかしい。心臓機能に数年前、異常がみられたかと思うと、今度は両目の横に腫瘍が出来て切除。病院通いが続く日々だ。
 放射能や「黒い雨」に当たったためだろうか。肉親や親戚がここ数年の間に、被爆が原因で発生したと思われる癌で他界した。自身も後遺症を疑わずにはいられない。農家を息子にほとんど譲り、これから余生を楽しもうという矢先のことだ。
 軍の作戦に携わった父義雄さんは、戦後間もなく機密文書を焼却処分にした。生前、自分史を綴るように勧めたが、ついぞペンを取らなかった。文書の一部がまだ、長兄義一さん(岡山県在住)宅に保管されている。〃代筆〃が山村さんの遣り残した仕事になりそうだ。

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