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ロライマに賭けた男たち=北緯三度、灼熱の大地で=連載(1)=日系社会の顔=辻一夫さん

2005年6月1日(水)

 【ボア・ヴィスタ発=堀江剛史記者】ブラジル最北に位置するロライマ州は、国内移住政策により、各州から多くの移民が導入された。日本人移住は五、六十年代に二度行われたタイアーノ移住のみ。アマゾン地域の日系社会でも、僻地感の強いロライマだが、近年、連邦政府や州の農業誘致政策などにより、移住する日系人が増えている。ロライマに賭けた彼らの思いと夢を聞いた。
 「世話役というか、小使いですよ」と常に笑顔を絶やさない。ロライマ州ボア・ヴィスタで日本人会の会長を自任するのは、同地で二十年以上養鶏業を営む辻一夫さん(七〇)。
 日本人会といっても正式なものではないが、マナウス総領事館管区であるロライマ州の窓口団体となっている。昨年は総領事を招き、州内で活躍する日系農業者と夕食会を開いた。
 同州における日本人の足跡は、五五、六一年に行われたタイアーノ日本人移住に遡る。その就農環境の劣悪さから、約二十家族のほとんどが四年の義務農年満了を待たず、脱耕したいわゆる〃消えた移住地〃。以降、日本人移住地はマナウスに留まり、それから北に伸びることはなかった。
 辻さんがボア・ヴィスタ近郊で養鶏業を始めたのは、八二年。同地に留まった数家族のタイアーノ移民を除けば、同州の古参日本人の一人となる。
 その穏やかな人柄も相俟って「ロライマの日系のことは、辻さんに聞け」と言われる所以だ。
 「その頃は『ロライマでは鶏は育たん』とか言われていてね。じゃ、やってやろうかって」。働き盛りの四十後半だった。
 当時、鶏卵はマナウスから送られてきており、サンパウロの倍ほどの値段だったという。「五万羽くらいいたかなあ。毎日、百十箱(一箱三十六個)を出荷していた。九年間、独占状態だったよ」。
 辻さんはベラ・ヴィスタ移住地(旧マナカプルー)に第二次入植者として、五四年に移住している。
 二年後退耕し、トメアスーでピメンタ栽培を学んだ。五八年に出聖、フォルクスワーゲン社に入社、ブラジリアの設計などにも携わった。
 七一年、まだベラ・ヴィスタで養鶏業を営んでいた父、福重さんに孫の顔を見せようとマナウスに帰ったことがきっかけでアマゾンへ戻ることになる。
 「その時、鶏の餌を買いに行ってね、凄いフィーラなわけ。ようやく自分の番が来たと思ったら、『もう終わり』ってフェッシャされちゃった。腹が立ってね」。
 「それなら自分でやるまで」と発奮、飼料会社を立ち上げたこともある。熊本生まれの〃もっこす〃だ。
 ロライマへの移住を考えたのは、連邦政府が他州からの農業者を募集していた植民政策を知ってから。
「その頃、マナウスの合板会社『永大』で働いてね。マナウスからベネズエラまで千五百キロの土道を運んでいた。いいところだなあ、と思ってね」。
 常に新しいことを求め、自分でやりたい性分の辻さん。開拓精神を発揮し、ロライマ移住を決断。この時、マラニョンや南部から数十の移住家族がいたが、日系家族は辻さんと郁夫人のみだった。
 ボア・ヴィスタから十五キロ離れたモンテ・クリストにある自宅兼養鶏場で娘夫婦と現在、同居する。近年移住してくる日系農業者を温かく迎える辻さんを慕っての訪問者は絶えない。ミーナスジェライス州から、〇二年に移住した田中パウロさんもその一人。
 「日系農業者はお互いに関係を持ちたいと思っている。個人的なもの以外に日系クラブみたいなものがあれば」と、同地での日系の連携を深めたい考えだ。
 「若い人が頑張ってくれているから、頼もしいよね。もう彼らの時代よ」と微笑む辻さんに、「会長、まだまだお願いします」とパウロさん。二人の笑顔がこぼれた。

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