ホーム | 連載 | 2006年 | JICAボランティア リレーエッセイ=最前線から | JICA青年ボランティア リレーエッセイ=最前線から=連載(6)=清水祐子=パラナ老人福祉和順会=私の家族―39人の宝もの

JICA青年ボランティア リレーエッセイ=最前線から=連載(6)=清水祐子=パラナ老人福祉和順会=私の家族―39人の宝もの

2005年8月4日(木)

 私の家、和順ホームはパラナ州の緑豊かで落ち着いた町、マリンガ市にある。現在三十九名(男性二十名、女性十九名)の方が共同生活をしている。
 入居者の半分はブラジル生まれ、つまり二世であり、一世の方々は減少傾向にある。主に言語は日本語であるが、ほとんどの方がポルトガル語の方が理解しやすいということで、派遣されて半年の私だが、毎日両言語を混ぜて会話している。
 移民時期も時代もさまざまだ。移住地の風土病などで苦労された戦前移民、戦時中、日本で苦労された戦後移民、生まれていなかった私には想像もつかない。
 先日、ある入居者の一人とこんな会話があった。
 「先生、足の虫知ってる?私は苦労させられたよ、あれには。日本語でアシノミ?スナノミだったけ?ポルトガル語ではねビッショ・デ・ペーというんだよ」
私―「なんですか?アシノミ?木の実?やしの実?何の実?食べ物?」
 「あははははは違うよ、足に入る虫のこと!」
私―「足に虫が入る?どうやって?痛いの?」
 「はだしで歩きまわっていたからねえ。痛くてかゆいの」
私―「ポロっと取れるの?」
 「うまーくとれたらポロっといくけど、取れないと潰したり絞りだしたりするんだよ。そして足がパンパンに腫れたりして、これが毎日だから嫌になっちゃうよ」
 毎日自分の足とにらめっこしながら格闘するなんて、確かに嫌である。
 何も経験がない私には戦争も移民も、そして病気も実際の苦労がわからない。 話を聞いて、そして想像して共感する事しか私には出来ない。目の前にいる彼らの言葉や表情などから、感じとっているだけにすぎないのだ。
 時々、本を参考に移民についての話をすることがある。後日、ある入居者が「先日の話は少しおかしいところがありますよ。私の移住地ではそんなことはなかったですからね」と自身の経験を話してくれた。
 私はハハァーと将軍様に頭を下げるような気分だった。そもそも移住を知らない私が経験者に話すこと自体間違っているのだ。
 子供の頃に移民された方はあまり日本を覚えていないであろうし、教育も途中だったのでないだろうかと思う。しかし日本語を読み、話す。
 私は日本語だけで他言語はできない。二カ国語をペラペラ話す入居者に私は頭が下がりっぱなしの毎日だ。言い方を変えれば、両言語を覚えなければならなかった苦労があったのだろうと思う。
 最初の移民からまもなく百年を迎える日系社会。移民してきた人の苦労は、はかり知れない。多くの苦労や死に出遭ってきたであろう。辛い日もあったであろう。その中で立派に子育てをし、ブラジル社会に貢献してきた高齢者の方々に私は敬意を表する。
 入居者は私に命そのものを教えてくれる。死の悲しみも教えてくれる。そして人間というものを教えてくれる。人生の先輩であり、教科書である。彼らは本当に温かい家族のようだ。
 介護は楽ではない。しかし、人は必ず歳を重ねる生き物である。自分が歳をとった時どんな介護をされたいか。それを考えた時、どういう介護をすべきか―、おのずと答えは出てくるのだろう。
    ◎   ◎
【職種】高齢者介護
【出身地】愛知県愛西市【年齢】27歳

 ◇JICA青年ボランティア リレーエッセイ◇
JICA連載(5)=東 万梨花=ブラジル=トメアス総合農業共同組合=アマゾンの田舎
JICA連載(4)=相澤紀子=ブラジル=日本語センター=語り継がれる移民史を
JICA連載(3)=中村茂生=バストス日系文化体育協=よさこい節の聞こえる町で
JICA連載(2)=原規子=西部アマゾン日伯協会=「きっかけに出会えた」
JICA連載(1)=関根 亮=リオ州日伯文化体育連盟=「日本が失ってしまった何か」
image_print