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本紙記者がのぞいた=パラグアイ日系社会=連載(1)=来年移住70年=親子2代の夢=前原城

2005年8月17日(水)

 パラグアイ移住の嚆矢となるラ・コルメナ入植が一九三六年に始まり、来年古希を迎える同地日系社会。ピラポ、ラパス(旧フラム)という戦後移住地もそれぞれ、四十五、五十周年と節目の年を迎えたパラグアイ日系社会を訪ねた。
     
 一国一城の主――。戦国時代以来、日本男児の夢といえる。〃文字通り〃その夢を叶えた人物が首都、アスンシオンから南東約三十キロのイタ市にいる。
 「朝早く登るとね、靄が海みたいになって、山のテッペンがちょうど瀬戸内海の島々みたいなんよ」
 低い山々が点在する草原にそびえる三層四階の城。天守閣に立ち、故郷に思いを馳せるのは〃城主〃前原弘道氏(68、広島県出身)。
 一九五八年、二十歳の時、家族七人でパラグアイへ。当初、ラパス(旧フラム)移住地へ入植予定だったが、母親である政子さんの体調が悪くなり、「開拓生活より、病院や薬局のある町の近くの生活を選んだ」。
 始めたトマト栽培も軌道に乗り、徐々に土地も増やしていったが、投機栽培に将来の不安を覚えていた前原さん。当時、よく訪れていたブラジルでの成功者が養鶏農家だったことが転向のきっかけとなった。
 現在、六十五万羽。国内消費七割の鶏卵を出荷する前原農商株式会社を経営する。飼料から雛の飼育、販売まで一手に行い、従業員は三百人を超える。
 自宅前に建つ鶏魂碑を前に「鶏に食べさせてもろうとるから」と、年に一度の鶏魂祭も欠かさない。
 「はっきり言って城を作るなんて愚の骨頂。泥棒も多いこの国では目立たないようにするのが当たり前。けど…」。前原さんの脳裏に築城に執念を燃やした父の姿が甦る。
 重機もなく、手動のクレーンで畑から岩を掘り出す。人夫も嫌がる危険な造成作業。十年かけて築城予定地の岩山周辺に公園や道を作った。
 「何かこの地に残せたらっていう気持ちがあったんだろうね」
 しかし、深さんは不慮の事故で一九九五年に死去。八二歳だった。父の意思を継ぐことを決意した前原さん。翌年から、本格着工した。
 建築会社との交渉や設計などの調整で毎年訪日。日本から三回、職人を招いた。瓦は〃愛媛の菊間〃とこだわり、自ら鳶足袋を履いて天守閣の屋根を葺いた。着工当初に建てた城門前の父の墓が見守った。総工費は「いくらかかったか分からない」
 一間の寸法がやや短いが、千葉の館山城、愛媛の川之江城と同じ設計。通称前原城こと〃御影城〃は、着工から十年を迎えた今年、その白亜の姿を大草原に輝かせた。
 今月、日本から最後の瓦が到着する。三層四階の一番下の屋根を葺けば、親子二代の夢が二十年越しに叶う。
 「親父の魂はここから逃げんと思う。けど、一目見せてやりたかった」。深さんの死を知らない知人からの手紙を墓前で読んだという前原さん。眩しそうに城を仰いだ。
 「完成後はパラグアイでの日本人の足跡を残す移民資料館にしたい」。そうすれば、人が来て、地元も潤うのでは――。父の思いでもあった。
 現在は、所有する四万五千ヘクタールの土地で牧場経営を手掛ける。
 養鶏王、城主、そして大牧場主へ。一移民の夢は南米の大地で完全に花開きつつある――。
    (堀江剛史記者)

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