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アスパーゼ=植民地回顧=桑育った頃には離散=最盛期=63家族=出身者会で旧交温める

2005年10月28日(金)

 現在、アスパーゼ植民地には三家族の日系人が暮らす。五十年の歳月の中で、かつての入植者は少しずつ植民地を離れていった。
 モコカ市内にはいま十家族の植民地出身者が暮らしている。「モコカ日本人親睦会」として、近郊に住む出身者たちと交流、年初の新年会には百五十人ほどが集まるという。
 「本当に何もなかったよね」。五五年に入植した小池美次さん(72、長野県)は開拓当時を思い起こす。二十歳のころだ。「片道十二キロ歩いて映画館までいったよ。着いたら寝てたけどね」と笑う。
 桑が根付かない。養蚕村の建設は最初からつまずいた。整地が不十分な所に植えたのも原因だったようだ。入植者の話では当時、他の候補地もあったようだが、結局はバルバ・デ・ボーダの茂った固い土地が選ばれた。
 「とりあえず食わなきゃいけない」。入植者たちは米やミーリョなどの雑作を始めた。その単作も土地の劣化とともに年ごとに悪くなり、三年目から肥料をとるために養鶏が始まった。
 現在はサンパウロ市に住み、時折植民地の家を訪れるという溝口ゆきさん(79、宮崎県)。戦中は赤十字の看護婦として奉天に住み、五六年に夫と二人の子供とアスパーゼに入った。
 戦前女学校で絵を勉強していた溝口さんは、入植地の小学校で絵を教えていたという。「最初の頃、学校は日本人の子どもばかりでしたよ」。
 最盛期のアスパーゼには六十六家族が暮らした。植民地は三区に分かれ、中心に学校や組合があった。入植者は全てを自分たちで作った。学校も、教会も。
 「にぎやかでしたよ」。現在モコカ市に住む水野進さん(五五年入植、69、福島県)はそう当時を振り返る。「運動会や演芸会、シネマ会なんかもありましたね」。当時は日本人ばかり。日本語を流暢に話すブラジル人もいたという。
 養鶏をはじめて数年が経つと土地も落ち着き、桑が育つようになった。七〇年ごろからは開設当初の目的だった養蚕を行なう人も出てきた。しかし、その頃には多くの入植者が植民地を後にしていた。
 「西も東も分からない中では同胞だけが頼りだった。一人一人出て行くのは寂しかったね」。水野進さんの兄、昭(ひかる)さん(72)は語る。
 昭さんはアスパーゼで養蚕を営んだ。水野さん一家は満州から引き揚げ者だ。一家は一年間の避難生活の後に帰国、父親は二年間シベリアに送られた。「入植当初はつらかったけど、避難生活を考えればね」。
 植民地では他にも十家族ほどが養蚕に携わっていたそうだ。「それでも」と水野さんは言う。「養蚕というのは割ときつい仕事でね。雨でも風でも桑を取りにいかなきゃならない。つらかったよね」。
 水野さんは十年ほど養蚕に携わった。「子供たちは学校を終えて外に出て行く。私らはやらざるを得なかったんですよ」。
 イトビでの同窓会からモコカに帰る車の中で、小池さんが静かに語った。「土地が良ければ、もう少し残ったかもしれないね」。
 植民地の日本人会は二十年ほど前に活動をやめた。最盛期には四十人近い移住者子弟が通っていたという植民地の小学校は今、生徒数二百三十三人。近隣でも有数の学校になった。ただ、日本語が響いていたであろう当時の面影はない。
 半世紀を経た今、入植当時の家長たちは多くが亡くなっていた。
 八十五歳の瓜生三郎さん。開設の前からアスパーゼを見てきた。「出ようと思ったこともあったよ。けど、みんなに止められてね」と瓜生さん。「それで、いまだにおるわけ」と笑った。
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 「アスパーゼには『日の出』という意味もあるんですよ」。水野進さんがそんなことを教えてくれた。
 自分史を書いているという進さん。いま十六歳、まだ渡伯の年齢まで届いていない。「まだ書くことが一杯あります。記憶のあるうちに仕上げたいですね」。
 「移り来て 山中深く 斧響く」――十九歳でアスパーゼに入った進さんが入植の翌年に詠んだ句だという。小屋を建てるための木を組合の山で伐採する、その時の様子だ。「本当にたいへんでした」と語る水野さん。「あの時の苦労を書いてみたいですね」と言葉を継いだ。おわり。    (松田正生記者)

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