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「円売り」問題 言い残すこと=作家=醍醐麻沙夫=連載(下)=はじめの思い込み捨てて

2005年12月15日(木)

 前回はMさんが密告されて警察につれていかれたが、容疑というほどの事実はなくて釈放された、ことまで書きました。
 かってコロニアを不安に陥れたほどの大事件だったというなら、Mさんのほかに誰かいなくてはならない。それで私は未知のXを探しはじめたのです(もう、三十年ほどまえの話です)。
 しかし、サンパウロにしろ地方にしろ、何年ものあいだいくら聞きまわっても、誰の名前もでない。当時のコロニアはある意味では狭くて、それに各地に消息通の人もおおく、聞き回るとなにかしら糸口くらいは出たものです。それがサッパリ出ない(これは「移民の生活の歴史」を書いた半田知雄さんも、おなじ経験をしている)。ニセ宮様とか臣連とかの取材にくらべて、あまりに糸口が出なすぎる。
 たとえば、臣連と袂を分かった薬師神元大尉の、その後の動向など、活字に残っているものはほとんどないが、地方へいって日記や手記を持っている人を訪ねて拝見すると、少しずつ断片が見えてきた。薬師神元大尉の動向など、小説家の関心にもとづいたかなり特殊な調査だったけど、そういうものでさえも当時は糸口がでてきたのです。
 「噂をそのまま書いた」という意味のパ紙の記者の証言もあるし、それで私は円売りの話をそれ以上調べるのはやめにして、「大きかったのは噂だけで、事実は大したことではなかった」と結論したのです。私以上に当時のコロニアについて知っていたし調べもした半田さんも同じ結論に達しています。
 「戦後の円売りはコロニアの大事件で、その元締めはMだった」と主張していた少数の人たち、それをなんとなく信じていた多数の人たちにとって、私の説はいわば地動説でしょう。すぐに受け入れられないのは分かっています。だが、もし真摯に考えるのであれば、はじめの思い込みを捨てて、もう一度丹念に資料にあたってみることを希望します。
 アンチMの四、五人の人が言っているほど、Mさんがさほど関わっていないだろうという私の推測には、もう一つ根拠があります(根拠というより傍証ですが)。
 円の需要が勝ち組のあいだで熱心にあったのは、終戦から一年か、せいぜい一年半までの期間です。このことはハッキリしている。
 ところが、その時期、Mさんは新聞社の創刊に忙殺されていた。パ紙の蛭田さんのことを調べたことがあります。当局への認可の申請からはじまって、印刷機も活字などもなく、その手配、社員の募集、地方の有力者まわりや説明会、販売網の設置ETC…、寝る間もないほど忙しかったらしい。社屋といっても下町のブエノ・デ・アンドラーデ通りの民家を借りていただけです。
 Mさんもやはり忙しかったはずです。Mさん自身が、いつも、まだ暗いうちにタクシーで印刷所にいって刷り上がった新聞を受け取っていた、ということは聞いています。
 そういう時期に、同時に、コロニアを震駭させるほどの大規模な円売りの巨魁だったというのは、話としては面白いけど、生身の人間としては時間的にも無理があるのではないか、と私は思っています。
 そもそも私がなぜMさんを擁護するのかという基本的なことを述べたいと思います。
 山本喜誉司さんは戦中戦後のコロニアの混乱を収拾するために「勝ち組、負け組にかかわらず、戦中戦後のことはお互いに一切言わない」という方針をたて、このコンセンサスはコロニアでおどろくほど守られた。戦後の日系コロニアの急速な発展の基になったのは、このコンセンサスのおかげです。
 ただし、歴史を述べるとき、どうしても人名を挙げなければならない重大な出来事もあるでしょう。だが、私にはMさんのケースは、これまでにもくどくどと説明したように、それには当たらないと考えるのです。そうなら、できるかぎりプライバシーを尊重したい。それが、私がMさんを擁護する基本的な立場です。
 そんな訳で、私が提案したいのは、過去に誰がどのように書いたかは、もう、いっさい不問にして、今後、円売りのことは、コロニア史として意味のあるまったくの新事実(もちろん、噂や伝聞ではなく)がでた時に、意見を発表していただきたいのです。
 私の判断にしても、現在の私が知っている範囲で妥当であるにすぎません。戦後六十年たったことを考えると、不毛な議論は無駄なことです。  (おわり)

■「円売り」問題言い残すこと=作家=醍醐麻沙夫=連載(上)=確証がない噂や憶測

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