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センター20周年記念して座談会「日本語教育 今、昔」=地位低く薄給だったが=当事者に魅力ある仕事=誇り、ベテラン5人実績数10年

2006年1月19日(木)

 教師と乞食とは三日したら止められないと、俗にいう。しかし「でもしか先生」(教師でもするか、教師しかできないという侮蔑を込めた意味)と言われたように、日系コロニアで日本語教師の地位は低く、待遇も悪かった。結果、後継者育成に頭を痛めてきた。日本語教育の魅力をアピールしようと、ブラジル日本語センター(谷広海理事長)は、十四日の創立二十周年記念式典で、座談会「日本語教育 今、昔」を企画。ベテラン教師五人や運営責任者に、現場の苦楽を語ってもらった。
 パネリストになったのは、川村真倫子松柏学園園長、小笠原勇二ABC日本語普及会会長、酒井政廣パラナ日本語教育連合会会長、牧田弘行リオ州文化体育連盟日本語普及部長、城田志津子ドウラードス日本語モデル校校長。
 牧田さんは運営側、ほかの四氏は教師側の立場から、司会を務めた日下野良武同センター副理事長の質問に答えた。
 日本語教師になった動機について、「生活のため」という面がもちろんあったが、「運命・宿命」が強調された。帰伯二世の川村さんは戦時中を日本で過ごし、平和な世界をつくろうと教育者を目指したという。
 城田さんは移住地に入り、原始林開拓に従事した。「家計が苦しいために、子供のできた花嫁移民が惨めな思いをしていた。せめて、親子のコミュニケーションが図られるようにと願い、日曜の午後に限って日本語を教え始めた」と振り返った。
 酒井さんは移住前、妻が幼稚園に勤務していたことで、学校を開くよう地域の人々に頼まれた。「月謝が少なく、カネのことでいつも困った。妻は、子供を生んだ時、母乳が出なかったんです」と明かした。
 このように、日本語教師は一般に、高収入を得られる職業ではない。それでも、出席者たちはいずれも、数十年も教壇に立ってきた。薄給に喘いでも、本人には魅力のある仕事だったからだろう。 
 小笠原さんは「星野富弘さんの詩画展に携わっています。会場で卒業生と再会でき、教師冥利につきます」と感慨深げに語った。城田さんと酒井さんは、教え子が家庭の事情で退学した後、学校で学習した歌を思い出して歌った、と本人や保護者から聞いた時、胸がしびれたという。
 リオでは、政府から支給されていた教師謝金を研修費に回している。牧田さんは「謝金をまとめて、有効に使うのが狙いだった。反面、これを受けるのを生甲斐にしている人もいた。研修・教材開発が盛んになった反面、心が痛む」と話した。
 日本語学習者は約二万人。日本語能力試験の受験者数も伸びている。城田さんは「地元では、二世・三世が日系人としてまとまりをみせようとしています。ブラジル人の学校ではできないことを、私たちはできるはずだ」と、日本語教師の魅力をPRした。
 川村さんは「毎日、変化していく教室の中で、子供たちが伸びていくのを助けるのが私たちの役割。ただ、コロニアで反対意見を述べると村八分にされる恐れがある。討論できる場所がもっとあればいい」と訴えていた。

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