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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2006年8月10日付け

 「文協会長と百周年理事長は別の人物にするべき」との意見が、五日の文協評議員会で出された。重要な意見だ。ただし、一世対二世という対立を助長する議論になっては不毛ではないかとも考える。戦争中に思春期を迎えて日本文化に複雑な思いを持つエリート二世と、六十~七十歳代の戦後移民による覇権争い的な雰囲気が漂う▼「会長を別にすべき」と言ったときに、特定の個人を攻撃批判する意味合いを持つのか、純粋に制度的な改善を求めているのかで、まったくニュアンスが変わる。百周年という最高の舞台の主役に立つのは誰か――。それが誰だとしても、まったく批判のない人物はありえない▼しかし、何かに決定的に失敗した時には責任をとるべき、との議論が高まるのは当然だ。これは世代論争と関係なく、団体運営上、必要なことだ。いつまでに何をするというスケジュールがあった時、それが遂行されなかったら責任を問われるべきだ▼そのときに、理事がボランティアだとか何とかいう言い訳は通用しないだろう。できないなら、最初から重責を引き受けるべきではなかった。もしくは、本人が周囲から拝み倒されて就任したのであれば、その人を引っ張り出しておきながら任務遂行を十分に支援しなかった周囲にも責任があるだろう▼ボランティア云々はここ数年頻繁に口にされるようになったが、現執行部から無給なわけでなく文協創立当初から同じ。この言葉が使われる文脈が言い訳的に響く点が気にかかる。「ボランティアに責任はない」のかと。不毛な世代論争にせず、次の百年を盛り上げる議論に繋げてほしい。(深)

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