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プレ百周年特別企画

2007年10月25日付け

遠藤さんの話。
 「三日間のモイーニョ・ヴェーリョ通いの帰途、いつも親父は疲れているみたいだった。ふと気がつくと、隣にかけている親父が私の方へ寄りかかって来る。見ると居眠りしていた。三日目が終わった翌日、親父は死んだ。
 阿部さんは広報の仕事をしていた。当時、コチアは広報のためラジオを使っていて、阿部さんは、その原稿を書いていた。毎回、その原稿を親父に見せるのだが、親父がさかんに朱を入れる。阿部さんは、それに辟易していた。あるとき、その親父のところから、戻ってきて『いくら言っても判らんのだ、親父の奴!』と、原稿を机に叩きつけていた。
 そんな具合だったが、阿部さんは親父を敬愛し続け、その死の時は、声涙ともに下るラジオ放送をしていた。阿部さんのように、コチアのため一生を捧げた職員が、昔は多かった」
この阿部という人も産青連のメンバーであった。
 下元健吉の死後も、コチアは拡大を続けた。
 下元の会話の仕方の真似が大流行、それが長く続いた。下元がやり残した事業は継承された。
 例えば、下元は生前、日本からの青年移民の導入に力を入れていた。
 一九五五年からコチア産組でコチア青年(第一次、千五百名)を迎え入れ、続いて第二次(同数)を予定していた。さらに、これとは別に、一九五七年、コチアが中心になって諸組合の参加を求め、既述の農拓協を設立、産業開発青年隊の導入計画を推進していた。(農拓協=サンパウロ州農業拓殖協同組合中央会)。しかし、その五七年、下元は急逝した。
 これら青年移民の導入に関しては、実はコチア内部に強い反対があり、それが燻り続けていた。下元が死ぬと表面化した。
 が、下元の意思を継ごうとする井上ゼルヴァジオ忠志会長は、いずれも継続させた。導入後も長く支援を続けた。反対派は、これを苦々しく思っていた。この件に関しての葛藤は長く続いた。
 時には、役員室から反対論の先鋒、幹部職員の谷垣皓巳が「ゼルヴァジオ!」と怒鳴る声が外まで響きわたった。秘書が驚いて救いを求めて走り回った。これが一度ではなく、二度、三度と起きた。
 下元健吉の新社会建設構想も受け継がれた。その中心的計画であった総合病院が一九六〇年代に建設された。完成直前に中止されたが、構想そのものは維持された。(大型の総合診療所は、その運営が軌道に乗っていた)大学建設計画もあり、これは未着手だったが、ずっと後年、コチアの末期になって農業高校が作られた。(その建設時期には問題があったが……)
 下元は死んでも、その活力と息吹は生き続けているかのようであった。
 下元の構想を堅く守り続けたのが井上ゼルヴァジオ忠志会長である。井上は、それを自分の使命であると信じ、その点は、一貫していた。ただ、その事については全く口には出さなかった。が、知る人は知っていた。
 しかしながら、一九八〇年代以降、ブラジルは、国家そのものが倒産に向かってスベリ出し、九〇年代、大破局に突入した。
 コチアも、その大混乱の中に巻き込まれて行った。 創立から六十七年、下元の死から三十七年、一九九四年、コチア産組は落城、新社会コチアも消滅した。
 日本の年号では、昭和が終わって数年経っていた。
(終わり)