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32回目のチエテ郷土会=60人集い旧交あたため=サンパウロ市

ニッケイ新聞 2007年11月09日付け

 旧チエテ移住地の出身者が集うチエテ郷土会(矢野久会長)の親睦会が十月二十八日、サンパウロ市の岩手県人会館で開かれた。今年で三十二回目となる。
 チエテ移住地(現ペレイラ・バレット市)はブラ拓により一九二八年に創設、三〇年代の最盛期には約二千家族が暮らした。
 郷土会は三十二年前、同移住地出身の佐藤永太郎氏(故人)のスザノ市の自宅に有志が集まったのが始まり。旧南米銀行会長の宮坂國人氏も訪れたという。最盛期には四百人が参加した。十二年前から矢野さんが会長をつとめている。
 近年は参加者も百人を割っているが、それでも今年も六十人以上が参集。持ちよりの昼食を囲み、カラオケや、旧知の仲間との話を楽しんでいた。
 岩渕アイルソン(84)、パウロ(82)、ナンシー(73)さんの三人は兄妹での参加。アイルソンさんによれば、父親の岩渕虎男さんは「サンパウロ市で最初に非日系のブラジル人と結婚した日本人」だという。
 岩渕氏はリオで陶器などを扱う日本貿易で働いた後、サンパウロを経て三三年に一家で入植。ブラ拓が経営する雑貨店の支配人をしていた。
 「昔は移住地の九割が日本でしたよ」と、十歳で入植、四年を同地で過ごしたアイルソンさん。「当時は原始林ばかり。男六人が手をつないだくらいのペローバもありました。山焼きのにおいがしていたのを覚えています」と当時を振り返る。暑さ、マラリアに苦しんだ思い出、三五年に現在はダム建設で沈んだノボ・オリエンテ橋が完成した時の祭典の様子など、その記憶は正確だ。「その時に十人の娘が盆踊りを踊ってね。それが(ペレイラ・バレット盆踊りの)始まりでした」
 四〇年に九歳で入植した小野寺郁子さん(愛知県)は七年を同地で過ごし、第二アリアンサへ。「私には故郷が三つあるんですよ」と笑う。戦中の日本語禁止時代、「父が夜、日本語を教えてくれました、教科書は昼間、畑に隠してね。当時、日本語の本やレコードを隠している人もいて、それをあさって勉強したものですよ」と思い出を話していた。
 来年には移住地創設から八十周年を迎える。矢野会長は「(七十五周年に続いて)チエテへ行くバスを出したいですね」と抱負を語った。

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