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第42回吉川英治文化賞=ドミニカ共和国移住裁判原告団事務局長=嶽釜徹氏が受賞=私費投じ長年取組む=圧力に屈せず初志貫徹

ニッケイ新聞 2008年4月26日付け

 【東京支社=藤崎康夫支社長】四月十一日午後五時、東京・帝国ホテルで、吉川英治賞の受賞式が行われた。吉川英治三賞(文学賞、文学新人賞、文化賞)の中で、最も長い歴史をもつ文化賞は四十二回目を数えた。文化賞は五人が選ばれたが、その中の一人にドミニカ共和国移住裁判の原告団事務局長を務めた嶽釜徹さん(70)が選ばれた。
 嶽釜さんは、ドミニカ共和国移住問題究明の中心人物として、私費を投じ、長年取り組んできた実績が高く評価されての受賞であった。
「他国の地に居ます私ごときを選んで頂き、驚きと喜びの感動を覚え、まこと光栄に存じます。この賞は、私一人のものではなく、移住者同胞と共に取得したものと確信しています」と、その受賞の喜びを語った。
 嶽釜さんは、太平洋戦争における日本敗戦時、朝鮮から鹿児島に引揚げた。
 農業高等学校の教頭であった父は、鹿児島県庁から「広大な土地を与えるから農業指導者として、ドミニカ共和国に移住してほしい」と強く頼まれ、移住を決意した。
 嶽釜さんは、九州大学医学部への進学を断念し、「カリブ海の楽園」といわれるドミニカ共和国に移住した。
 同国には一九五六年から三年間に二百四十九家族約千三百人が移住したが、そこは不毛の地であった。
 一九八七年、父親は「まさか日本政府に騙されるとは誰も思っていなかった」という言葉を残し他界した。
 この言葉は、嶽釜さんに父が残した宿題であった。
関係者から「ドミニカ問題は、政府が法務省に手を打って、必ず勝つ(訴訟は移住者側が負ける)」と圧力をかけられたこともあった。
 二〇〇〇年、移住者百二十五人が原告となり謝罪と賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。第二次訴訟、第三次訴訟で原告は百七十七人となった。二〇〇五年の結審まで、嶽釜さんは五十三回、ドミニカと日本の間を往復し、原告団事務局長の任務を果たした。判決は、国の責任は認めたものの時効を理由に「請求棄却」が言い渡された。
 この判決に対し、当時の小泉純一郎首相は政治決着を決め、謝罪と一時給付の閣議決定をした。
 柳田邦男吉川賞選考委員は、「失敗を直視せず、被害者を放置する国家の非情さを象徴するドミニカ移住者問題を、苦難の中で訴え続けた嶽釜徹氏の声が意味するものに、政治家・官僚は耳を傾けるべきだ」と、選評の中で語った。

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