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日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(2)=「小家畜か駄獣のように」=手足に鎖、舟底につながれ

ニッケイ新聞 2009年4月10日付け

 一五九六年にアルゼンチンで奴隷売買された日本人青年に関し、大城徹三氏は著書『コルドバ』で、かなり踏みこんだ分析をしている。イビウナ市在住の香山榮一さんから送ってもらい、ようやく読むことができた。
 この本には「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、当時日本との貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノス・アイレス港に入ってきたと推測できる。ということはスペイン国法に照らし、奴隷に処せられる条件になかった」(十五頁)とある。
 これは実に刺激的な説だ。なぜなら、ポルトガル商人の手によってお隣まで来ていたなら、もっと近い、南米唯一のポルトガル植民地だった伯国にも日本人奴隷が売られてきていても何ら不思議はない。
 むしろブラジルにこそ多く来ていた、と考える方が自然だろう。
 日本人奴隷に関し、前述の中隅さんは『ブラジル学入門』の中で、「日本側の記録がないのでわからぬが、ポルトガルにはいろいろな記録が断片的に残されている」(百六十四頁)とし、外交官でラテン・アメリカ協会理事長だった井沢実さんの『大航海夜話』(岩波書店、七七年)から次の引用を紹介している。
 「インドのノーバ・ゴア発行の『東洋ポルトガル古記録』の中に日本人奴隷関係で、まだ訳されていない重要文書が含まれている。ゴアにはポルトガル人の数より日本人奴隷の数の方がより多いなどということはショッキングである」
 中隅さんは書き進め、「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数入っている」(前同)と記す。
 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、一九九五年、百五十八~百六十頁)には、次のような記述もある。
 「一五八二年(天正十年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。『我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった』『全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』といったやりとりが、使節団の会話録に残されている」
 少年使節団(一五八二―一五九〇年)がイエズス会員に伴われて欧州に出発したのは、「本能寺の変」と同じ年だ。
 日本にいたポルトガル人宣教師は、同胞商人による日本人奴隷売買をひどく嫌がり、本国に取締を要請し、一五七〇年九月二十日にドン・セバスチォン王は禁止令を出したが効き目はなかった。
 「この現象を嘆いて、ポルトガルの碩学、アントニオ・ヴェイラはこう言っている。『法律というものはあっても、違反者は絶えないものである。例えば日本人を奴隷にすることを禁止する法律が制定されているにも拘わらず、ポルトガル国内には多数の日本人奴隷の存在する事実によって、これを証することが出来る』」(『入門』百六十五頁)と中隅さんは例証する。
 禁止令の二十六年後にアルゼンチンで奴隷売買されたフランシスコ・ハポンの存在がまさにそれを実証している。現在の伯国に通じる法律軽視の気風は、すでにこの当時の宗主国にはあった。
 「秀吉の側近だった大村由己(ゆうこ)は『日本人男女数百名の多数を黒船に買取り、手足に鎖をつけて舟底に追い込み、地獄の責苦をあたえ………』と憤慨して書いているから、一船当たり、二百名位は積んだらしい」(前同)と記す。
 まるでサルバドールの奴隷市場で売り買いされた黒人と寸分変わらない様子で、日本人も扱われた歴史がある。このこと自体、一般にはあまり知られていない。(つづく、深沢正雪記者)



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