ホーム | 連載 | 2009年 | 日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?! | 日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(7)=キリシタン浪人との説も=下克上の世を疎み出国か

日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(7)=キリシタン浪人との説も=下克上の世を疎み出国か

ニッケイ新聞 2009年4月18日付け

 一五八七年、豊臣秀吉は九州征伐の途上、宣教師やキリシタン大名によってたくさんの神社仏閣が焼かれて仏教徒が迫害を受けており、日本人が奴隷となって海外に売られているとの報告を聞いて激怒した。
 そこで秀吉は同年六月にキリスト教宣教師追放令を発布し、その一条にポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた条項を入れたが、奴隷貿易を阻止することはできなかった。
 というのもその時点では、厳格に守らせようとしたわけではなかった。
 南蛮貿易の利益は棄てがたいものであったし、へたに民衆に棄教を強要すると平定したばかりの九州で混乱が生じ、反乱につながる恐れがあると判断されたからだ。
 秀吉とキリスト教徒の関係を決定づけたのは、一五九六年のサンフェリペ号事件だ。スペイン人航海士が「キリスト教布教はスペインにとって領土拡張の手段である」と発言、日本人奴隷売買と同国人宣教師の関係が疑われ、秀吉は京都で活動していたフランシスコ会宣教師らを捕まえ、司祭・信徒合わせて二十六人を長崎で処刑した。
 この背景には、一五八〇年にポルトガルがスペインに併合され、同じ国王を抱くようになった事情がある。ポルトガル独自の行政、宗教、司法などの制度は続けられたが、以後六十年間、外交的には一国として扱われた。つまり、日本側にすれば、合併によりスペイン人の国内での活動も認めざるを得なくなった。
 以前からの日本事情をよく知るイエズス会は、秀吉の禁令後、ひっそり布教するようになった。だが、スペインが支援するフランシスコ会は状況認識が甘く、なかば公然と布教をしていたため目をつけられた。
 キリスト教が広まった背景には、当時の社会格差、百年以上の戦乱による人心の荒廃があり、既成仏教にはない新しいものに救いを求める心理が働いたようだ。ガラス、鉄砲、ワイン、メガネ、印刷術など目新しい最新技術と共にもたらされたその考え方は、当時の民衆にとって、体制護持派となっていた仏教が失った魅力があった。
 秀吉が宣教師追放令を出したのは、アルゼンチンで日本人が奴隷として売られた翌年だ。そんな時代背景が、彼をして日本を出させる理由になったのかもしれない。名前のフランシスコ・ハポンにしても、イエズス会のザビエルにちなんでいたのかもしれない。
 いずれにせよ、なにかの理想を西洋社会に夢見て、単身南米まで渡ったクリスチャンだった可能性がある。自由渡航者として渡ったのに、途中でポルトガル人商人に騙され奴隷として売られたが、裁判で自由を勝ち取ったと推測できる。
 前出の『コルドバ』には、次の分析もある。
 「キリスト教の取締りが厳しくなると、信者の中には自発的に、あるいは強制的に朱印船に便乗して海外に渡る者が多くいた。また一方、戦国争覇で各地に戦乱が繰り返され、大名の栄枯盛衰も激しく、敗亡の大名の家来の中には国内で身の振りどころがなく、海外に飛び出す者も出て、この浪人問題は当時の日本の重大な社会問題となり、多くの浪人が海外に移住を求めるようになった。つまりキリスト教に対する弾圧と戦乱の浪人が日本移民の始めといわれる」(十五頁)と日本人町の形成や、亜国の件の背景を説明する。
 「さらに、当時日本の置かれていた社会情勢から推してこの青年の出国を考えた場合、熱烈なカトリック信者であったか、もしくは戦乱の浪人『侍』であったともいえる。いずれにせよ同民族間で限りない闘争で明け暮れる日本に見切りをつけ、たまたまポルトガル人に嘆願し、新天地を求める好奇心と活路を求める意で大きな野望を抱き、ポルトガル船に乗り込み、大陸アルゼンチンに来た『最初の南米日本人移民』だった、と史実に基づいて断定してよかろう」(十五頁)
 下克上に明け暮れ、百年以上の長い戦乱の続いた戦国時代を嫌い、日本を飛び出したキリシタン浪人だった可能性を指摘している。
 新天地に大志をもって乗り込んだサムライであれば、まさに移民の先達に相応しい。(つづく、深沢正雪記者)

写真=天草四郎の陣中旗には、ポ語で「いとも尊き聖体の秘蹟ほめ尊まれ給え」と書かれていた



image_print