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百周年機に脚光浴びる=涙の移民秘話 酒井繁一=「ひえつき節」を作詞

ニッケイ新聞 2009年9月4日付け

 酒井繁一さん(しげいち、1901―1984年、宮崎県)といえば、第一回コロニア文芸賞受賞者、移民の短歌活動を指導した歌壇の第一人者として知られている。昨年の百周年を機に、酒井さんを顕彰して日本で演歌が発売されるなど、改めて日本で脚光が当てられている。

 先日、話題の東国原英夫知事が来伯したばかりの宮崎県を代表する民謡といえば、文句なしに「ひえつき節」だ。「庭の山椒(さんしゅ)の木 鳴る鈴かけて」で始まり、「那須の大八鶴富おいて 椎葉たつときゃ目に涙よ」などと源平伝説を織り込んだ恋物語として戦後日本で大ヒットしたが、酒井さんが作詞したことはあまり知られていない。
 歌謡事情に詳しいブラジル日本アマチュア歌謡連盟の北川彰久名誉会長も、「まったく知りませんでした」という。
 酒井さんは早稲田大学文学部に進学したが、不況で家業が傾きやむなく休学し、たまたま代用教員として赴任した先が、当時から平家の隠れ里として知られていた秘境・椎葉(しいば)だった。
 同地で元々歌われていた「ひえつき節」は逢い引きの様子を歌った猥歌調だったため、友人から子供にも聞かせられる歌詞に書き換えて欲しいと頼まれ、引き受けた。
 『椎葉山由来記』は、その地の伝説を伝える。八百年前に壇ノ浦の合戦に敗れた平家の落ち武者達は山奥深くへと逃れ、ようやくたどり着いたのが椎葉だった。しかし、ここも源氏総大将の頼朝に知られ、那須与一に追討の指令が出されたが、病のため弟の那須大八郎が椎葉に向かった。
 盛者必衰の理。大八郎は、ひっそりと暮らす平家一門の様子を見て哀れに感じ、幕府には討伐完了の虚偽の報告を挙げ、屋敷をかまえた。そこで出会ったのが、平清盛の末裔である鶴富姫(つるとみひめ)だった。二人は恋に落ち、歌い出しにあるように庭の山椒の木に鈴をかけ逢瀬を重ねた。
 幕府から帰朝命令が出たとき、姫は身ごもっていた。仇敵である平家の姫を連れて帰るわけにもいかず、大八郎は別離の印に名刀一振りを残し、何度も何度も振り返りながらこの地を去った。
 「ひえつき節」を書き換えた後、酒井さんは復学のために再上京したが、実家が倒産してしまい、やむなく三二年に一家をあげて渡伯した。
 酒井さんはノロエステ線リンス近くの日本人植民地を経てスザノへ。終戦後まもなく驚くべき体験をする。正月に東洋街で買い物をした時、太陽堂書店の店先から聞き覚えのある調べが流れてきた。懐かしい「ひえつき節」のレコード、しかも自分が作詞した源平の恋物語版だった。
 県庁「宮崎の百一人サイト」によれば、「私は息をのみ、その場に思わず立ち止まりました。まさしく自分の書いたあの時のあの詩だ、思わず胸が熱くいっぱいになって、涙があふれて止まりませんでした」。八三年に置県百年祭で帰郷した折り、本人がそう語った。
 酒井さんは、けして豊かな生活をしていたわけでない。しかし、『椰子樹』に「酒井繁一の世界」を連載した故人をよく知る安良田済さん(93、山口県)は、「対応がとてもよい人で、カンポスやグアイーラで歌会を作り、指導料も取らずに短歌を熱心に教えた」と語る。八四年にスザノ市の自宅で亡くなった。
 「鶴富姫と大八さまをひえつき節に詠んだ頃 ピンガを呑むたび想い出す 恋しや秋のあぁ椎葉」――そんな歌詞がちりばめられた、酒井さんのエピソードを歌にした「ノスタルジア椎葉」が、サンパウロ市大阪市姉妹提携四十周年を記念して来伯したプロ民謡歌手の成世昌平さん(日本クラウン)によって、五日午後一時から文協大講堂で行われる記念イベントでブラジル初披露される。百周年を意識して、前年(〇七年)に発売された。
 移民百一周年目、奇しくも没後二十五年となる今年、多大な故郷への貢献を持ちながらそれを喧伝することなく亡くなった酒井さんが見直されようとしている。
 泣く泣く椎葉を去る大八郎に自らを重ね、酒井さんは故郷への想いをたぎらせたのかもしれない。

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