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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《36》=日伯の知恵の結晶=森林農業という曼陀羅

ニッケイ新聞 2009年10月20日付け

 森林農業の主要な作物は40種類を超えており、それぞれに移民80年分の悲喜こもごもと、長年のインディオや河民の知恵が刻まれている。
 例えば、南拓が最初に目指して失敗したカカオ、戦前移民が脱耕資金を得るために栽培した米、戦後に移住地に天国と地獄を見せた胡椒、河民から伝わった現地の各種熱帯果実やアサイー、インディオが薬として珍重するアンジローバ、そして世界に誇る商品木材マホガニーなどが一カ所に植え付けられる。
 日本的考え方と原住民の知恵の融合が、自然との共存を可能にする農法に結実した。日本移民が畑というキャンパスに描いた〃生きた曼陀羅(まんだら)〃のようだ。
 森林農業の考案者、故・坂口陞(のぼる)さんは、トメアスー本派本願寺の第三代目住職として、アマゾン移住70周年の開拓先没者追悼法要を司祭した。仏教哲学に基づいて自然観察することは、日常的に身に付いていただろう。
 『A Imigracao Japonesa na Amazonia(アマゾンにおける日本人移住)』(本間アルフレッド、農牧公社刊)の中で、専門家である本間さんは、「森林農業の作物の組み合わせは無数にあり、時代に合わせていける。今の状態はあくまで出だしに過ぎない」(157頁)とする。
 いろいろな作物を混植し、畑から絶え間なく収穫があるよう組み合わせるこの農法には、実は完成がない。組み合わせが無数にあるからだ。その時代の需要に合わせて臨機応変な在り様は、まさに曼陀羅の本領発揮だ。
 現在、利益を出している森林農業の作物も、最初からそうではなかった。今は採算の取れていないレイシ、ノニ、プシリ、マランギなど多様な作物も混植されているが、これは「未来の商品」だと位置づける。
 07年4月、74歳で亡くなった坂口さん。まるで生き急ぎ、懸命に自然の摂理を読みとり、それを自分の畑に移し取ろうとしたかのような人生だった。02年10月に東京農大で取材した時、「森林農業にこだわるのは、先祖代々、和歌山の山の中で育ったから」と自己分析していた。彼が抱くアマゾンへの崇敬は、郷土・和歌山県の森が生んだ南方熊楠(くまぐす、博物学者、エコロジスト)に通じるものがあるのかもしれない。
 森林農業は、戦前移民からの伝統を引き継ぎつつ、戦後移民が新しく創造した農業文化であり、それを戦後二世が商業的に成功に導いた共同作業、いわば世代を超えた〃日系文化〃の創造といえる。しかも、それを商業的に成功させた例として、特別な意味合いを持っている。
 ノンフィクション作家の山根一眞さんは9月のサンパウロ市講演の中で、96年にベレンで国際環境フォーラムを開催した時に司会者を務めた経験を語った。
 「あの時、坂口さんに森林農業をしているブラジル人はいますかと尋ねたら、一人もいないと言う。会場で『学びたい人いますか』と呼びかけると数人が手を挙げた。『坂口さん、彼らに教えていただけますか』というと『いいですよ』と即答してくれました」。
 今回山根さんがトメアスーで尋ねると、森林農業をやっている日系人は200家族、ブラジル人は5000家族もいることが分かった。「牧場にするより、森林農業をした方が利益が高いことが分かってきた。このまま300年も続ければアマゾンは回復する。日本人の大きな貢献だ」。
 さらに山根さんは「森林農業は、私たちがすべき発想の原点。あらゆる分野でこれをやっていかなければ」とし、世界の産業と自然の関係に、ブラジル日本移民が新しい地平を切り開いたことを強調した。(続く、深沢正雪記者)

写真=坂口陞さん(2002年10月、東京農大会館にて)

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