ホーム | 特集 | 2009年 移民の日特集 | 道産子移民、走り抜けた104年の人生=3度目の結婚は90歳=「殿様のような農業やる」=農業と日本語教育に尽力=サンパウロ市 礒部正さん

道産子移民、走り抜けた104年の人生=3度目の結婚は90歳=「殿様のような農業やる」=農業と日本語教育に尽力=サンパウロ市 礒部正さん

 ポルトガル語はほとんど覚えなかった――と真っ先に語ったのはサンパウロ市サンターナ区に住む礒部正さん(104、北海道)だ。続けて「食事の時、冗談をみんなポ語で言うでしょう。一緒に笑えないのが寂しい」と語る。ひたすら農業と日本語教育に心血を注いだ104年の人生を追った。

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 礒部さんは一九〇五年五月四日、北海道岩見沢町に四人兄弟の三番目、長男として生まれた。北海道帝国大学の工科を卒業後、伯父(母の兄)がブラジルに移住しカフェを作っていたことから移住を決めた。しかし、当時移住を希望する人は多く、礒部家は先祖代々から伝わる刀を道庁に渡して、特別に取り計らってもらったという。
 三三年に伯父がいるパウリスタ延長線、ベラクルス市に母と弟、他所の姉妹の五人で入植。従兄弟が管理しているカフェ農園で働いた。この姉妹の一人と日本を発つ前に結婚した。実は礒部さん、百四年の人生で三度結婚をしている。この一人目の妻は、ブラジル到着後、長女を産んですぐに亡くなった。
 ブラジルに来て初めて農業に取り組んだ礒部さんだが、始めは苦労したという。農園でみんなが真っ直ぐ草とりする中、自分だけ斜めに進んでしまう。体がクタクタになり日曜日は休みだが、休むと体が言うことを効かなくなるため、休みでも体を動かしていた。
 当時、ドイツのヒトラーのことを本で読み、「三年間農村で働いてから社会に出て働くこと」という言葉に感心して、それで百姓を本気でやろうと思ったという。
 伯父の所で三年勤めると、働いても疲れない体になった。その時初めて「ヒトラーは偉い」と感じたという。
 その後、四〇年に入植したパラナ州ウライで、知り合いの紹介で兵庫県出身の立美さんと出会った。日曜日毎にデートを重ね、「殿様の様に大きなカフェ農園をやる」と口説き、出会って二、三カ月後、三十五歳の時に二度目の結婚をした。その後四十五年連れ添うことに。当時、立美さんには大きなカフェ農園を経営している男性がいたが、それを押し退けての結婚だった。この時、正さんには一人、立美さんには二人の連れ子がおり、その後、六人の子供に恵まれ子供は計九人になった。

コロラドで日本人会長=200人の子供に指導

 それからは夢であった「殿様のように大きなカフェ農園をつくる」為に五九年、五十四歳の時に、パラナ州奥地のコロラドに入植。この頃から後々、礒部さんは生涯の大仕事となる日本語教育に力を入れ始める。正さんは教育にはうるさく、コロラドの日本人会会長を長年務め、日本語学校では二百人近くの子供に日本語を教えていた。カフェを作っている時には夜学で自分の子供達に教える傍ら、他の生徒にも毎日無報酬で教えていた。
 パラナ奥地からも要請がきたが、一人では出来ないので町の年寄りに声を掛けたり、奥地を歩き回ったりし、「日本で小学校を出ているなら、それだけのことを教えれば良い」と説きまわった。やがて、教育への尽力と功績が認められ、八五年、八十歳で単光旭日章を受章した。記者に勲記を見せてくれ「今までの苦労が吹っ飛んだ」と語ってくれた。

受勲から人生一転=3度目の伴侶との出会い

 八十二歳で最愛の妻を亡くしてから元気がなくなった。周りの勧めもあって八十四歳の時に、半世紀振りに故郷を訪れた。勲章を付けて町へ出ると、「そのような勲章をもらった人は一人もいない」と、「移住者の息子が帰ってきた」と言って喜んでくれた。
 それ以来、急に生き甲斐のある人生になり、米寿のお祝いでは「あんたは百歳までいくよ」って言われた。そんな時「嫁が欲しい」と言ったら子供達が本気にして周りに話をしたり、突付いたりしたという。
 その後、独身女性を求めて老人ホームに九〇歳で入所した。そこで見つけた女性を「十年は健康を保証する」と口説き、半年ナモーラした後、十二歳下の知恵子さんと三回目の結婚をした。
 「彼女の気持ちには裏がなく、あっさりした気性が気にいった」という。正さんは知恵子さんに「いつも嫁に先に逝かれるってことは、女をいじめ泣かせたからだ。今、懺悔をしている」と本音で胸中を語った。それがむしろ、智恵子さんの好感を呼び、三度の結婚に踏みきるための切り札になったようだ。
 三度の結婚にも驚くが、実は日本を発つ前から、一世紀分の女性遍歴を予感させるエピソードがあった。
 「北海道の遊郭に、最高に気立てが良くて、嫁にしようと思っていた娘がいた」という。ところが、おじから呼び出されこっぴどく怒られ、その女性との婚約を解消するよう言われたが、突っぱねた。
 するとおじは、「父から頼まれてるんだ」と言い刀を抜き「お前を切って切腹する」と言われ、正さんは「おじの気性を知っているから謝った」と八十年前の熱い〃青春〃の一幕を語った。

日本語へのこだわり=孫が話さないの寂しい

 昨年の百周年を振り返ってもらうと「百周年と言っても、援協会長の挨拶がポ語で残念だった。自分なりに一所懸命に日本語をやってきたつもりだが、それはなんだったのだと思う。でも、反発は出来ない。自分の家庭も同じで三世の孫が日本語を話さない。これだけやってきたのに、自分が寂しい」と悔しそうな表情で語った。
 また、終始和やかな雰囲気で話をしていたが、唯一した苦労話は原生林を切り開いたとき。マットに入り、晩御飯を食べて椅子に座り休んでいると、人工衛星が通るのを見て「この先どうなるのか」と本気で考え、がっかりした。カボクロ以下の生活をしていたので心配になった。しかし、より良い生活をしたいという希望があるからがんばれた。副産物は五右衛門風呂。露天風呂で南十字星がキラキラ輝いていて、新鮮だった。
長生きの秘訣を聞くと、「一生を通じて精神的にも健康に繋がったと思うのは農業。百姓はつまらんと思っていたが、カフェを植えて成長してくるのは子供が成長するのと一緒で、カフェの成長を見ると苦労が吹っ飛んだ。ああしたら喜ぶだろうな、と思うと疲れはないし、体も健康になる。ブラジルに来て百姓の喜びを味わった」と語ってくれた。
 「日本でも百五歳はあんまりいないでしょう。ましてや、ブラジルでは」と笑顔を見せた。

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