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トメアスー=幻の世界的エネルギー構想あった=アマゾン移住80周年記念企画=大物政治家との深い絆=千葉三郎の想い振り返る=岸信介が〃お忍び〃で

 アマゾン河口最大の都市ベレンから南に百十キロにある〃北伯移民のふるさと〃トメアスーを舞台にした、現代に通じる幻の大エネルギー構想があったことは、あまり知られていない。ブラジルに縁のある大物政治家といえば、セラードに入れ込んだ渡辺美智雄氏(大蔵大臣など六大臣職)や、海外移住家族会連合会の会長を長年務めた田中龍夫氏(通産大臣、文部大臣)がまず思い浮かぶが、アマゾン開拓にもキラ星のごとく幾多の有名政治家が関わっている。その一人、千葉三郎氏(1894年生まれ~1979年没)は三十年前、アマゾン移住五十周年式典に出席するために来伯する途上、メキシコで客死した。その胸中には世界的エネルギー・プロジェクトが秘められていた。その遺志を継いで、岸信介元首相が八〇年代に二度もトメアスーを訪れている。しかも二度目は完全なお忍びだった。そして、昨年五月には現役閣僚としては初めて、若林正俊農水大臣も百周年式典出席のために同地を訪れた。数々の大物政治家が関わったアマゾン移住も、今年九月に八十周年を迎える。

政界勇退してアマゾンへ=田中義一、渋沢栄一も関与

 アマゾン開拓を語る時に、千葉三郎氏の名を忘れる訳にはいかない。
 千葉県出身、東京帝大法科を卒業後、元鐘紡社長・武藤山治の娘婿として、一九二五年に旧千葉二区の衆議院補欠選挙で岳父が率いる「実業同士会」から立候補、三十一歳の若さで初当選を果たす。
 一九二八年に再選を果たすも、翌年にはアマゾン行きのために政界勇退を決意し、三〇年三月には南米拓殖株式会社(以下、南拓)の取締役として、禮子夫人と共に自ら渡って八カ月も滞在した人物だ。
 この南拓発足には、当時の政財界の代表的な人物が関わっている。
 一九二六年の福原八郎鐘紡取締役を団長とするアマゾン調査団の報告に基づき、一九二八年三月、時の首相兼外務大臣の田中義一男爵が国内の代表的な実業家を官邸に招いて懇談した結果、渋沢栄一子爵の提案で十二人の進行委員が推薦された。
 ちなみに、田中義一首相(当時)は、海外移住家族会連合会の創立から一九九八年に亡くなるまで会長を務めた田中龍夫氏の父親だ。義一氏は二九年に拓務省を創立し、同大臣も兼務したという意味で移住事業とは関係の深い政治家といえる。
 その田中龍夫氏のもとで秘書として移住事業を見守ってきたのが、麻生現政権の要となっている河村建夫官房長官であることは言うまでもない。
 一九二八年四月には、アマゾン拓殖事業を遂行するための会社創立発起人会が設立され、八月には南拓の創立総会を開催するという素早い動きをみせた。社長には福原氏、千葉氏も取締役に入った。総会の十二日後、先発隊は横浜港を出港して、現地の受け入れ態勢の整備に邁進した。
 トメアスー入植者第一陣が、リオ乗り換えで翌一九二九年九月十六日にベレンに到着。それにちなんで今年、十六日にトメアスーで八十周年式典が挙行される予定になっている。
 入植当時を記した自叙伝『創造に生きて~我が生涯のメモ』には、「八月に入って猛烈マラリアにかかった。一度は四十度の高熱で意識不明となったが、フランス式熱気療法で救われた」とあり、まさに移住者同様の生活をしていたことが伺える。
 さらに「昭和六年の正月はアカラ(現トメアスー)で雑煮を食べたが、寒い日本の正月に慣れた体では正月の気分が出ない。年頭の三が日も休まないでみな耕作地造りに懸命(中略)、私は日本からの再三の懇請で、この苦渋に満ちたアマゾンの地をあとに帰国せざるを得なくなった。八ヶ月のアマゾン生活は、私にとって苦しくもあり、また楽しい思い出であった」と記されている。
 千葉氏は帰国後、一九四五年に官選で戦後初の宮城県知事に就任、四七年には初の知事公選で引き続き選ばれた。四九年の衆院総選挙で民主党から立候補して当選し、五〇年に民主党幹事長の要職に。五二年から千葉に選挙区を戻し、五四年の第一次鳩山内閣で労働大臣として入閣する。
 五五年に大臣職を退き、東京農大の第四代学長(一九五五~五九年)に就任し、「南米に行こう」と呼びかけて拓殖学科を設立した。
 戦後も一九六八年八月にパラグアイ大統領就任式の帰路、トメアスーを訪問。七六年に政界を引退するまで、アマゾン行きの中断期間をはさみ、通算十二回も当選した。

写真=千葉三郎氏

マンジョッカから燃料を=千葉氏が植木大臣と会談

 いまでこそ、バイオエネルギーやエタノールは世界の注目を浴びているが、三十年も前にそれに着目していたのが千葉氏だ。
 トメアスー移住地では戦後に手がけた胡椒栽培が一時的に大成功するが、六〇年代中ごろから根腐れ病により壊滅的な被害を受けたことを心配し、千葉氏は解決策を模索していた。
 一九七三年十月の第一次オイルショックを受け、いつか石油エネルギーが枯渇すると見越し、アマゾン流域にマンジョッカの大生産地を作り、食糧としてだけでなく、エネルギー源として活用する一大構想を考えた。もちろん、将来的には日本でも利用したいという夢があった。
 『トメアスー開拓五十年史』によれば、「こうした一連の構想の底流には、千葉氏の若い頃からアマゾンに賭けた執念と現地邦人に寄せる限りない温情があった」という。
 千葉氏は政界最後の年、七六年七月に「国際マンジョッカ・エネルギー開発(株)」を発足させ、社長には中西健次・高砂香料工業社長が就任した。同年六月、国際協力事業団から調査団がトメアスーを訪れ、十一月、自らが会長を務める国際食飼糧開発協会からも派遣調査団を赴かせ、十二月にはアラシジ・ヌーネス・パラー州知事と調印にこぎつけた。
 日本移民七十周年である一九七八年六月二十二日には明仁皇太子殿下、美智子妃殿下(現天皇皇后両陛下)がベレンを訪問された。
 くわえて、千葉団長率いるマンジョッカ・エネルギー開発基礎調査団が来伯した。まるで生き急いでいるかのような急展開だった。
 千葉氏が東京農大学長時代に学生生活を送った、ブラジル東京農大会の北伯分会、山中正二分会長(岩手出身、71)=ベレン在住=は、「千葉団長は七八年にブラジリアで植木茂彬鉱山動力大臣(1974―1979年在職)と会談し、アルコール車燃料という現在につながる発想の先陣を切った」との話を明かした。
 ブラジルでもエルネスト・ガイゼル大統領の肝いりで、第一次石油ショックの教訓から七五年にプロアルコール計画が始動していた。といっても当初の数年は構想を練っている状態で、植木鉱山動力大臣を中心に、徐々に一部が実施され始めたばかりの時だった。
 しかし、現在の代替えエネルギー政策につながる端緒となる構想がこの時期に練られていたことは間違いない。
 同年、国際協力事業団から「ブラジル連邦共和国マンジョッカ・アルコール生産計画予備調査報告書」が刊行となった。
 工場規模、生産量、償却費等を詳細に検討のうえ事業に着手し、これが成功すれば、これを模範にアマゾンにマンジョッカ旋風が吹き、現地農業界を大いに潤すことが期待された。

激変の年に移住50周年=佐藤栄作来伯の予定も

 翌七九年は激変の年だった。二月には第二次石油ショックが起き、世界が揺さぶられた。そんな最中に迎えたアマゾン日本人移住五十周年であった。
 五十周年の日本側推進委員会の委員長だった千葉三郎・日本海外協会会長、田中龍夫副同会長らを先頭に、約二百人の大慶祝団が組織された。
 元トメアスー文協事務局長の角田修司氏(67、宮城県出身)は、「五十周年には岸信介元首相の実弟である佐藤栄作元首相も来られる予定だったが、病気の関係で結局は来られなかったと聞いています」という。
 というのも、千葉氏は保守合同後、岸信介派―福田赳夫派に所属していた関係で、岸元首相とは昵懇の仲だった。
 同年十一月には、トメアスーにマンジョッカからアルコールを抽出するための合弁会社「COPAMASA」(パラーマンジョッカ株式会社=押切他男社長)のレセプションが盛大に行われた。トメアスーでマンジョッカの栽培試験をすると同時に、同製粉工場を稼働させるなどの事業展開をした。
 そして、同年十一月二十九日には同祭典に出席するために大慶祝団とともに来伯途上だった千葉団長がメキシコで客死した。一大構想の出発点である、工場を初めて自分の目で見るはずの機会だった。
 享年八十五歳。

岸信介2度トメアスーへ=千葉氏の遺志を継いで

 一九八〇年十一月、千葉氏の一周忌、岸信介元首相が国際マンジョッカ・エネルギー協会の会長としてトメアスーを訪れた。主目的はマンジョッカ事業の業務引き継ぎに関連した現地視察ということだったが、角田氏は「本当は千葉さんの墓参だったかもしれません」と推測する。
 一九五九年に現役首相として初来伯した岸信介氏だったが、このように千葉氏の遺志を継いで、再訪していたことはあまり知られていない。
 日にちはずれているが同じ十一月、千葉氏の未亡人、禮子夫人が娘を連れて、遺骨の一部を持参し、トメアスーの故人の墓地に分骨した。
 千葉三郎氏の胸像は七九年十一月に開所された、旭日旗をかたどったデザインの日本公園の中央に設置されている。
 時代を先取りしすぎたのかもしれない。「COPAMASA」社は数年後に閉鎖された。
 作物から燃料を作る発想は駿逸だったが、ブラジル政府が推し進めたサトウキビのエタノールとの競争になった。
 千葉氏の構想は、「残念ながら時代の変遷と人材の問題、それに南伯のカンナ・デ・アルコール生産の増加に伴い採算が合わなくなった」(同五十年史)という事態になった。
 その後、ブラジルはサトウキビ原料のエタノール生産では世界最大を誇るまでになり、ここ数年来、世界的な注目を浴びるまでになっている。
 角田氏は、「千葉先生は大変な先見の明があった。世界を見通した壮大な構想を持った政治家でした」と振り返る。「ブラジルを舞台に日本移民と手を取って、世界のエネルギー事業を変えようとした政治家という意味では、本当に感服させられる人物でした」と語り、その功績を改めて高く評価した。
 さらにマンジョッカ事業の関連ではないかとみられるが、岸元首相は一九八五年五月二十七日に、驚くことに〃お忍び〃でトメアスーを訪れていたことが分かった。写真にあるように、千葉三郎農場を訪れている。
 この時のことは、要人来伯がつぶさに記されている『移民史年表』(サンパウロ人文科学研究所)にも、現地の『トメアスー開拓七十周年記念誌』にもなく、もちろん当時のパウリスタ新聞にも一行も報じられていない。唯一、東京農大卒業生アマゾン移住五十周年記念誌に、ここに転載した日付入りの写真一枚があるのみだ。
 山中氏は、「確かに来られました。あの時はベレンで盛大に歓迎会を開きました。日本人でカラジャスでガリンペイロをしていた人が、大粒の砂金を岸さんにプレゼントしていたのを覚えていますよ」との秘話を語った。

写真=1985年、岸元首相(左から3人目)が〃お忍び〃でやってきたトメアスーの千葉農場(同50周年記念誌より)

続々と大物政治家が訪問=渡辺美智雄元通産大臣も

 大物政治家のトメアスー行脚はその後も続く。一九八七年一月には渡辺美智雄衆議(八六年まで通産大臣)がトメアスーを訪問した。
 角田氏は「ピメンタの根腐れ病調査のために栃木県の専門家が何人かいらしていた。その関係もあって北伯の栃木県人会を訪問されたのでは」と推察する。
 さらに移民八十周年、一九八八年には礼宮文仁殿下が、ブラジル日本移民八十周年祭式典臨席の帰路、ベレン訪問。盛大な記念式典を平和劇場で挙行した。
 そして、移民九十周年の前年、一九九七年六月一日、天皇・皇后両陛下歓迎式典、ベレン平和劇場で盛大に行われた。

現役初訪問の若林大臣=百周年式典に出席のため

 二〇〇八年五月四日朝、ねじれ国会の厳しい日程をぬって、現役閣僚としては初、若林正俊農水大臣は、自らのたっての希望をかなえるために、トメアスーに日帰りでやってきた。トメアスー飛行場には、文協が経営するニッケイ学校の生徒がズラリと並んで旗を振って出迎えた。
 その時のことを海谷英雄トメアスー移住八十周年記念祭実行委員長は「ヘリコプター四~五台でやってこられました。若いときからアマゾンに想いがあったとお聞きしました」という。
 同地文協会館の入り口には役員や幹部が並んで待っていたが、一人一人に握手してから入場した。
 会館の中には、五百人以上が集まり、百周年記念式典を執り行った。大臣はまっさきに七十歳以上の移民が座る敬老席にいって、全員にしっかりと握手し、「ごくろうさん」とねぎらいの言葉をかけたという。
 同大臣はミニ物産展、先亡者供養、墓参り、文協二階の移民史料館、ニッケイ学校横にある移民の森、移民の家(初期移民の家を復元したもの)を視察し、パウ・ブラジルを記念植樹した。
 その後、文協事務所で、「一志一道」「農国の礎」の二つを毛筆で書き残した。
 さらに、峰下興三郎農業で森林農業を見学し、さらにトメアスー総合農業協同組合(坂口渡フランシスコ理事長)のジュース工場へも足を伸ばした。
 本来は日曜休業の同工場だが、海谷実行委員長は「止まっている機械など大臣に見せられない」と組合に掛け合って、特別に営業させた。組合も多額の休日出勤費用がかかるにも関わらず、意気に応え、従業員総出で働いた。
 大臣の後に席に乗ってマイクロバスで移動していた海谷さんは、郡長らにそのことを説明していると、前で聞いていた大臣が「そうなんですか」と驚いた表情で振り返ったという。
 大臣はその後、首都ブラジリアへ飛び、ブラジル政府要人との会合を行い、帰路に着いた。

☆    ☆

 移民百周年では若林農水大臣が訪問したが、今年のアマゾン移住八十周年ではどんな要人が来伯するのか。現地では期待が高まっている。それに関し、ブラジリアの日本国大使館では「総選挙を控えている関係もあり、現在のところまったく未定」としている。

写真=昨年5月、百周年式典に出席するためにトメアスーを現役閣僚としては初めて訪れた若林正俊農水大臣(左から2人目、写真提供=トメアスー文化農業振興協会)

千葉氏が国会で演説=「夢を抱いてアマゾンへ」

 1969年、国会議員在職25周年の表彰のおり、衆院本会議で千葉三郎衆議は、アマゾンに渡った思い出から始まり崇高なる人類愛を説く、次のような演説をした。時あたかも、全共闘運動が燎原(りょうげん)の火のごとく全国の国公立大学や私立大学の大半に広がり、大学闘争の嵐が吹き荒れた世情のときであった。

☆    ☆

 昭和5年、一たん政界を退き、若かりし夢を胸に抱いてアマゾンに渡り、日本人のための村づくりをなし、また、民間の重要な仕事にも関係いたしてまいりましたので、終戦後の昭和24年再び政界に復帰するまで、私には18年間の政治空白があるのであります。
 現在の若者の悩みと焦燥感、民主主義政治の現状に対する大衆の批判、さらに行動のすべては、自己を中心とした物質上の利害で判断して、社会的正、不正の観念を閑却し、あまつさえ、欲求のためには手段を選ばない風潮、これらの事態に対して現在の民主主義は解答を与え得るでありましょうか。率直に言って、もの足りなさを感じます。
 すなわち、高度に発達した科学技術に即応し、さらに、道義と国家に対する責任及び崇高なる人類愛を基調とした、青年にも魅力のある新しい、正しい民主主義を開発して、これを育成する段階に迫られているのではないでしょうか。

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