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百周年赤ちゃんと百歳の移民の日=日系社会の礎と将来

 昨年、全伯で盛り上がった日本移民百周年――、あれから一年が経った。百一周年目の今年は今後を占う意味でも重要な年だ。そこで、日系社会の新旧の両端ともいえる二つの物語を紹介する。一つ目は、今年百歳の仲間入りをする安里翁の足跡を辿り、もう一つは、ちょうど百周年の移民の日とその前の日に生まれ、次世代の日系社会を担うであろう、今年一歳を迎えた三世の子供二人の一年間だ。

安里さん12月に百歳に=詩「移民百年の歩み」=歌ついて帰ってきた

 今年十二月に百歳を迎える安里幸永さん(あさと・こうえい、99、沖縄)は、自らが三十年前に仕立てたコートを着て、サンパウロ市サンターナにある三男の秀男さん(61)宅で記者を待っていた。
 細身の体にコートをまとい、眼光は鋭く輝いておりまだまだ元気だ。この日は長女恵美子さん(69)夫婦、三男秀男さん(61)夫婦、次女スエリさん(57)らが集まり、二時間半もの間、幸永さんから語られる一世紀分の話に聞き入った。
 幸永さんは一九〇九年十二月二十五日、沖縄県本部町に七人兄弟の末っ子として生まれた。先に呼び寄せ花嫁として渡伯していた六歳上の姉の元に、一九二八年七月五日「さんとす丸」にて単身移住した。七月七日、上塚第二植民地内アリアンサ区に入植。姉夫婦の家族四人(夫婦と娘二人)と共にコーヒー栽培に従事した。
 三五年に同じ本部町出身のウシさん(沖縄)と結婚後、ウシさんの父親が経営するコーヒー農園で歩合作として働く。しかし、やがて生産過剰で値がつかなくなり、コーヒーには見切りをつけ、長男の教育のため、リンスに向かった。
 三六年にリンスに出てからは洋服屋の仕立て見習いになり、一人前になるまでは鳥小屋のような小さな所に一家で住み、収入もなく最低限の生活で我慢した。幸永さんは「コーヒー農園は重労働が辛いだけだったが、町の仕事は苦労が多い。金がないのが一番辛かった」と語った。
 一通り作業をおぼえたので、四二年にオズワルド・クルスに移って独立し、自分の仕立て屋を開店した。政治家の背広も作り、評判は良かった。同地には沖縄県人がたくさんいたので、幸永さんらが中心となり、五三年、沖縄県人会オズワルド・クルス支部の会館を建て、五六年には支部長を務めた。
 六二年から出聖し、仕立て屋で歩合賃をもらいながら八〇年頃まで働いた。アイロンをかける時が最高の楽しみだったと言う。「アイロンさえかければお金がもらえるから」と笑う。
 引退後は陶芸やゲートボールを楽しんでいたが、今は腰を痛めており家でゆっくり過ごしている。
     ◎     
 百周年でお祝いムード一色の昨年だったが、幸永さんには個人的にも嬉しい出来事があった。
 「移民百年の歩み」という自作の詩は、出帆、航海、耕地、開拓、地主、収穫、百年の七部からなり、当時の情景がまざまざと思い起こされるような言葉がぎっしりと詰まっている。
 この詩は、沖縄県人移民百周年記念式典に参加した勝連盛豊沖縄ブラジル協会副会長の目に留まり、「ぜひ歌い残したい」と請われ、母県に持って帰った。沖縄在住の作曲家、玉井政昭さんに作曲を依頼し、なんとメロディーがついて帰ってきたのだ。
 「詩は作ったが、歌になるとは思わなかった。歌をプレーヤーから流したら、みんな拍手喝采。感激しました」と幸永さん。子供達が喜んでコピーして方々に配った。
 この日は幸永さんを囲み、みんなでじっくりと歌を聴いた。幸永さんは「もし日本人がカフェばかり作っていたら今のコロニアはなかった。各方面の新分野に進んでいったからコロニアはうまくいっている」としみじみ語った。
写真=安里幸永さん(前列中央)を囲んで

皇太子さまと握手=ガッツポーズ見せる

 昨年、移民百周年の六月二十日、皇太子さまが文協をご訪問された折、大ホールで幸永さんら高齢者代表が出迎えた。年齢順なのか、一番前で皇太子さまに会うことができ、握手もしてもらった。
 「お元気ですか?」と言葉をかけられ、(身振り手振りを交えて)頭が混乱したという。「自分の友人かと思うほどニコニコしていた」と興奮気味に語っていた。入植してからは三大節(新年、天長節、紀元節)はとても大切で、その時には学校は休みで先生も生徒もみんなが集まった。校長先生が教育勅語を読み上げ、生徒一同は敬礼していた。小学校五、六年頃にはみなが暗記していた。
 四年前まで幸永さんは近くのアパートに住んでいたが、現在は三男の秀男さん夫婦と一緒に暮している。秀男さんは「父はあまり上からものを言う人ではなく、子どもの頃から怒らなかった」と語った。それに対し、幸永さんは「自分と若者とは考え方が違うから、また時代が違うから怒ることも出来なかった。どっちが良いのか、なんとも言えない」と語った。現在、子供が四人、孫が七人、四世である曾孫が三人いるが、「ブラジルの文化も良いが、日系社会は続かないといけない」と語気を強めて語った。
     ◎     
 「長生きの秘訣は?」と聞くと「死ななければ長生き」だと笑う。さらに、健康だから長生きするわけではなく自然なもの。若い時はタバコも酒も嫌いだったが、今はカイピリーニャが一番好きで、舐める程度に嗜むという。
 好奇心はまだまだ旺盛。「百歳の誕生日まではがんばる」と、ガッツポーズをみせた。

直美ちゃん1歳=6月18日生まれ=病院で53日間過ごす=笠戸丸航海日数と同じ

 ブラジル中が日本一色になった昨年六月十八日『日本移民の日』に、カンピーナスでひっそりと金子直美ちゃんは生まれた。
 さらに、その前日の十七日には従姉妹の金子幸恵ジュリアちゃんが生まれていた。二人とも元気で、今年最初の誕生日を迎えた。
 直美さんの父親、竜次さんによると、直美さんの出生には数々の偶然が重なった。兄の政博さんとは五歳も年齢が違うのに、同じ二〇〇一年の四月と十二月に結婚し、やはり七年目にして初めて父親となった。
 直美さんは最初、九月に生まれる予定だったが六月十八日に生まれた。竜次さんは、「一日前に生まれた従姉妹に遅れまい、日本移民の記念行事の慶びを自分も肌で感じたい」と思って生まれてきた様な錯覚を覚えたという。
 また、入院したCentro Medico de Campinasは優秀な医師団と設備に恵まれ、自宅から車で十分というのも幸いした。早産の直美さんは体重一キロそこそこの未熟児で、病院で五十三日間を過ごした。
 これは、笠戸丸が神戸を出港しサントス港に入港(六月十八日=五十二日目)するまでに加え、実際に下船(同十九日)した時までの合計日数と同じ。
 何日も管を口に加えて必死で生きようとする直美さんに、「今は亡き笠戸丸に乗っていた人々が励ましてくれていた様にも思えた」という。
 さらに、もう一つの偶然があった。直美さんが退院したのは八月十日の『父の日』。竜次さんは「神のおぼし召しか、お医者さんの計らいだろうか、私は、その日の慶びは一生忘れることが出来ない」と語った。
 さらに、「直美と従姉妹のジュリア幸恵さんは病気もせず丈夫に育っている。私達夫婦は、家族を始め大勢の友人達が直美の為にお祈りをして下さったことを忘れてはいない。生まれたと同時に生死の間をさまよった直美が、一年を迎えこんなに元気になった事を神に感謝しています」と語った。

写真=(前列左から)幸恵さん、直美さん(後列左から)竜次さん夫妻、政博さん夫妻

移民百年の歩み
安里幸永

【出帆】
神戸港の移民船
ドラや太鼓に励まされ
網成すテープはぶっ切れた
瞼に残る旗の波
【航海】
木の葉のように波に揺れ
昨日も今日も変わりなく
空の青さに海の青
我が乗る船は進み行く
【耕地】
噂に聞いた宝庫は
艱難辛苦のいばら路
行方も見えぬ霧の中
耐えて忍んだ幾十年
【開拓】
人足未踏の密林に
斧音高くこだまして
踊る腕に力あり
我等築かん移民村
【地主】
涙で育てた珈琲樹は、
情にぐんぐん伸び育ち
枝もたわわに黒ダイヤ
笑顔に笑顔の左右
【収穫】
生産過剰と焼き捨てる
豊作貧乏つきまとう
移民根性揺るぎなく
開拓魂奮い発ち
【百年】
斯くして迎えし百周年
歴史に記さん知能技を
ここに幸有り希望有り
楽土ブラジル平和郷

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